立石斧次郎。
この名前を聞いてピンと来る方はおそらくそんなに多くはないと思います。
しかしこの斧次郎こそ1856年、日米修好通商航海条約が時の駐日総領事ハリスと幕府の間で締結されて以来、今日に至るまでアメリカでもっとも愛された日本人。驚異のモテ男でした!
始まりは万延元年遣米使節団
日米修好通商条約の締結後、批准書交換はワシントンで行うとされたため、新見正興を正使に村垣範正の副使にそして小栗忠順を目付とする一行77人は、ジョサイア・タットノール司令官が艦長を務めるアメリカ海軍「ポーハタン号」で渡米することになります。
また万一の事故に備え幕府は護衛目的で「咸臨丸」を派遣、軍艦奉行木村喜毅をはじめ勝海舟や福沢諭吉そして通訳として中浜万次郎(ジョン万次郎)を随行させます。
その中に見習い通訳としてポーハタン号に乗り込んでいたのが立石斧次郎でした。
ポーハタン号のマスコット
斧次郎は渡米前に横浜で現在の税関に当たる役所で雑務に従事、語学の才能に恵まれていた斧次郎はそこで英語力を身につけていて、他の随行者とは違いかなり外国人慣れしていたようです。
ちなみに福沢諭吉が横浜を訪れ斧次郎に英語の発音を習っていたという逸話も残っているほど天性の語学力があったんですね。
そんな語学力に加えて生来の明るい性格と、いつも笑顔を絶やさない人懐っこい笑顔で斧次郎はたちまちポーハタン号のマスコット的存在になります。
Tommy(トミー)の誕生
斧次郎は幼名が為八だったこともあり同行者は斧次郎を「ため」と呼んでいたそうで、それがアメリカの海軍士官には「トミー」と聞こえたことがニックネームの由来となりました。
物怖じすることなくいつも明るく、アメリカ人士官相手にも気軽に話しかけるトミーは船内の人気者になります。
これがのちに全米の女性を虜にしたトミー人気の始まりでした。
使節団いよいよアメリカ上陸
横浜を出航したポーハタン号は途中で嵐に遭遇し急遽ハワイのホノルルへ寄港しましたが、2ヶ月後サンフランシスコに到着。無事アメリカ上陸を果たしましす。
サンフランシスコでは市長主催の歓迎会が行われ、その後一行はワシントンでブキャナン大統領と批准書を交換し任務を終了。
そしてフィラデルフィアやニューヨークとアメリカ各地を回ります。
トミー人気爆発!
アメリカの行く先々で大歓迎された使節団でしたが、ニューヨークのブロードウェイで行われたパレードではなんと50万人もの見物人が訪れ、ニューヨーク・タイムズは「市の歴史の中でもっとも華々しいイベントだった」と評したほどでした。
アメリカ各地行く先々で大歓迎された使節団でしたが、とりわけトミーの人気はどこに行っても絶大!
ブロードウェイのパレードでは他の使節団一行が無表情でいる中、ただひとり女性からもらったハンカチを笑顔で群衆に向かって振るなどサービス精神で満点で、その姿にアメリカ女性は大熱狂しました。
新聞のインタビューで全米女性のハートを鷲づかみ!
アメリカの新聞の一面を飾った初めての日本人もトミーでそのサービス精神はとどまるところを知らず、トリビューン紙のインタビューでサインを求められたときなど。
「I like american lady very mach」そして「I want marry and live here with pretty lady」と書き添えたそうです!
「素敵な女性と結婚してここに住みたい」なんてちょっとサービスしすぎのようですがこれがトミーの持って生まれた社交性なんでしょうね。
トミーの人気ぶりはトリビューン紙を始めイラストレイテッド紙やニューヨーク・ヘラルドなど様々な新聞に紹介されそれがトミー人気に一層火をつけたそうです。
まあ女性の喜ぶようなことを並べたてたんでしょうねぇ。
全米一のモテ男!
いろんなメディアがトミーを取り上げたことでその人気にはますます拍車が掛かります。
そして遂にトミーが泊まるホテルには各地から毎日膨大なラブレターが届けられるほどに!
また舞踏会などではトミーが近づくと女性たちは息を呑んで静まりかえるほどだったと報道されています。
使節団の誰もが尻込みする中でただひとりトミーだけは、現地の人々に溶け込もうと機関士や消防士の中に積極的に飛び込み交流したり、パーティーではピアノの伴奏でアメリカと日本の歌を唄って喝采を浴びたそうです。
またアメリカの少女と恋をして自らの髪の毛を切って与えたり、アメリカ人女性と初めてキスをしたのもトミーだと言われています。
トミーこのときなんと17歳!正に日本男児としても面目躍如!このときトミーは間違いなく全米一のモテ男だったでしょうね。
帰国の途へ
他の使節団随行員がアメリカの文化やアメリカ人を理解しようとしない中で、トミーは生来の明るさや柔軟性そして天性のユーモア精神を兼ね備えた人物でした。
滞在中トミーの人気は衰えることなくその社交性は「お忍びで参加した日本のプリンスだ」という都市伝説も生まれたそうです。
そして約5ヶ月の滞在を経て日本に帰国したトミーは幕臣になりましたが、戊辰戦争で兄は戦死。トミーも銃弾を受け九死に一生を得ましたが幕府が瓦解しました。
維新後そして「トミーポルカ」♪
維新後「長野桂次郎」と改名したトミーに新政府から岩倉遣外使節団参加の要請があり、トミーは10年ぶりに懐かしいアメリカの土地を踏みます。が!しかしそこではトミーを驚愕される事実が待っていました。
なんと!自分の名前を冠した歌が存在したのですよ!
「トミーポルカ」と題されたこの曲はトミーの絶大な人気を伝える曲として全米で大ヒットしていました。
2度目の渡米は苦難続き
トミーのユーモアあふれた会話や洗練された所作は、アメリカ人からは絶大な人気を誇りましたが、使節団の薩長出身者からは「軽々しい」つまり「チャラい男」として見られ肩身の狭い思いをしたそうです。
前回とはまったく違いますね。権威慣れした幕臣たちより薩長の下級武士上がりの随行員の方が堅苦しかったんですね。
モテたかったらトミーを見習おう
語学に堪能で明るく物怖じせずいつもフレンドリーで、異文化を理解する精神にあふれ社交性を身につけている。
これらひとつひとつの事柄は現在でも日本人男性に欠けている要素だという気がしますね。やはり大切なものはコミニュケーション能力を磨くこと。
封建社会で身分の差が大きかった日本より、トミーにとってはアメリカの方が生きやすかったのかも知れないですね。
モテたいならトミーを見習いましょう!
トミーのその後とまとめ
二人のサムライがビールを酌み交わす現存する唯一の写真。右がトミーで左に写っているのは兄の小花和重太郎です。これは本当にいい写真ですね。
将軍徳川慶喜が大政奉還を上表した年に撮影されたもので、アメリカでビールを飲んだことがあるであろうトミーには懐かしい味だったでしょうね。
最初の渡米でトミーはイラストレイテッド紙で「我が国の愛すべき婦人や美しい少女たちを魅了して止まない。彼は不滅でありこの国の歴史の中で永遠に記憶される」
おそらくアメリカの新聞でここまで大絶賛された日本人はトミーだけでしょうね。
そんなトミーも 幕末維新という激動の歴史の中では、やはりひとりの脇役に過ぎなかったようで維新後はそれほど出世することもなく。
晩年は西伊豆で静かに暮らし1917年(大正6年)この世を去りました。享年75。
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黄色いトミー 日本からやって来た サムライトミー」
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