白洲次郎。
戦後GHQから「従順さらざる唯一の日本人」と言わしめた男。
徹底した本物志向の持ち主で、スーツはサヴィルロウの「ヘンリー・プール」、シャツはすべて「ターンブル&アッサー」のオーダーメイド。
「ロック帽子店」のソフトを愛用し、雨の日は傘のロールスロイスと言われる「ブリッグ」の絹傘をさしかける。
神戸一中の頃にはアメリカの高級車「ペイジグレンブルック」を乗り回し、その後イギリス留学時には1924製「ベントレー3リッター」1924製「ブガッティ35」を所有しヨーロッパで名を馳せ。
70歳を過ぎてからも「ポルシェ911」を軽井沢ゴルフクラブに乗り付けると、人々は目を見張ったと言います。
そんな白洲次郎は現代の日本では、ダンディズムの象徴のように語られています。
もちろんそれだけではなく、戦後「終戦連絡事務局参与」として、GHQと様々な交渉に当たり,
サンフランシスコ講和条約においても、重要な役割りを果たした白州を時の総理吉田茂は「白州三百人力」と表現し、頼りにしていたそうです。
この時代の白州についてのエピソードは、多数の書籍やテレビやドラマにもなり至る所で紹介されています。
そこで家族の目から見た白洲次郎とはいったいどんな人物だったのか!
白州の三女桂子さんの夫であり、白州にとって娘婿である、牧山圭男氏の著書「白州家の日々」からエピソードをいくつか紹介します。
「プリンシプル」
白洲次郎は生涯にわたり「プリンシプル」を信条としていた人です。
「プリンシプル」とは原理原則という意味でしょうか?要するに「筋を通すことだ」と牧山氏は語っていますが、それは牧山氏と桂子さんの結婚式でも発揮されたようです。
父と私ははしゃいで糸瓜襟のディナー・ジャケットを初めて誂えたのだが、次郎さんは頑として夕方5時前にブラックタイなどオーバードレスだと、ダークスーツで通した。
今思うと単なる嫌がらせではなく、なるほどカスタムに沿ったことだったのであろうかとも思う。
イギリス留学で身につけて英国流のマナーを貫き通す。プリンシプルに生きた白州らしいエピソードですね。
白州は東京小石川から鶴川村(現在の町田市)に引越し、近隣農家の「組」にも入れてもらい、かなり本気で農業に取り組んでいたらしく。
「田舎に住んでまともな生活をしている人は田舎者とは言わない。都会の中で恥も外聞もなく振る舞う人種を田舎者という」と常に言っていたそうです。
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また能ヶ谷町内会報誌には当時の白州のエピソードが残されています。
ジーパン姿の白州さんをよく見かけた。その着こなしがよく似合っていた。
(略)
昭和27年講和条約に出席の為、吉田首相全権大使一行がサンフランシスコに向かった。
吉田全権大使は羽織袴姿で、白州さんはジーパン姿で尻のポケットにウイスキーの小ビンそねじ込んで機上の人となったそうである。
それもよく似あっていたと思う。
お洒落について。
白洲次郎のお洒落のベースは、やはりイギリス仕込みのトラディショナルだったようですね。その上ファッション用語のT(Time)・P(Place)・O(Occasion)・S(Style)をきちんと押さえていたそうです。
牧山氏がロンドンに同行した時は「ターンブル&アッサー」のブレザーコートをプレゼントされたそうです。
ブレザーはいわゆるジャケットと違いかなりフォーマルにも使えるので、それが白州流の気配りだったのかも知れないですね。
白州は次に「必ず所属クラブなり、出身校のスクールタイか絹のネクタイをしろ。間違ってもニットタイを合わせるな、お里が知れるぞ!そういうカスタムなんだ」
そう細かく教えたそうですが、さすがにイギリスの名門ケンブリッジ仕込みのトラディショナルを極めていたんですね。
古い友人は白州のことを「ダンディーなジロさん」と呼んでいたそうですが、後年には宝塚の宙組が白州のダンディズムをテーマにした演目を、上演するとは夢にも思っていなかったでしょうね。
白州が服装について語るときよく使っていた言葉は、Dress Up(着飾る)・Dress Down(着崩し)でそのほかに「オーバードレスとアンダードレスに気をつけろ!」と言っていたそうです。
オーバードレスとはカジュアルな場にスーツを着て行くようなことで、アンダードレスはフォーマルな場にカジュアルな格好をして行くこと。
その基本をはずさずに「イッセイミヤケ」から「ヘンリー・プール」まで自分のポイントを持って着こなしていたのは見事ですね。
白洲次郎のダンディズムの要件とは。
- 筋の通った自分の考えを持っている。
- 私する心がなくフェアーである。
- 弱者に優しい。
- ユーモアとウィットに富んでいる。
- 見た目そこそこカッコいい。
だったそうですが、これは見習いたい精神だと思います。
ゴルフクラブライフ
晩年の白州は理事長をつとめる「軽井沢ゴルフ倶楽部」」の運営に力を注いていたそうですが、ここでも彼のプリンシプルを示すエピソードが数々あります。
佐藤栄作氏が総理当時、知り合いが新規会員として申し込むにあたって推薦人になっているのを「一国の総理がそういうことはしない方がいい」とたしなめたり。
田中角栄氏が入会してすぐに秘書官から電話があり「田中が次の日曜にアメリカ大使と回りたいと申しております」
支配人からそれを聞いた白州は「佐藤だか田中だかよくある名前だがどこの田中だ?」
これを聞いた秘書官がムッとした口調で「総理の田中です!」
「当クラブは週末はビジターはお受け出来ません」ここで引き下がってはと秘書官も「総理がたってのお願いと言っておりますが」食い下がります。
それを聞いた白州は「それなら当クラブの規則を変えなければなりません。理事会を招集して決議が必要なので、それまでお待ち下さい!」
中曽根康弘氏が現職の総理だったとき警備の都合上、SPをコースに同道させたいという依頼には、プレーをしない人の入場は認めていないときっぱりと断り。
仕方がないのでSPはコースの外の道路から双眼鏡で見張っていたそうですが。
これを見た白州は当時中曽根氏が「風見鶏」というアダ名で呼ばれていたのに引っ掛けて「これが本当のバードウォッチング」と悦に入っていたと言います。
このようなエピソードから白洲次郎という人は、やたら威張って怒鳴り散らすというイメージを持たれがちですが、偉い人間には強くコースの従業員やキャディーさんには、本当に優しく大切に接していたそうです。
これを聞いて周りの人は「凄い」とか「さすがだ」とか言って感心したそうですが、白州本人は至極当たり前のことを言っているにすぎない、プリンシプルを貫いているだけだと言っていたそうです。
白洲次郎については語り尽くされた感があり、また人物としての評価も様々ですが。
その生涯「プリンシプル」を貫く通したのは、やはりダンディズムを体現した人物であることは間違いないと思います。
そして何よりカッコいいですね。とにかく女性にはモテたようですね。
牧山氏は酒席での心得としてこう教わったそうです。
「席についた女性とは万遍なく話しひとりと話し込むな。金払いは綺麗にそして言い寄られたら即座に断れ!」
またある料理屋で椅子に座った白州の靴紐がほどけているのを、見つけた女将さんが屈みこんで結んでくれようとしたとき。
「まだ君の番じゃないど・・・まぁいいか」
因みに私は明石家さんまさんは、立派なダンディズムの体現者だと思っていますが。
そのさんまさんが一番憧れている男性が白洲次郎だそうです。
そして1985年11月28日稀代の風雲児白洲次郎は83歳でこの世を去りました。
生前梅原龍三郎の葬儀で見た「生者は死者の為に煩わさるべからず」という書に影響を受けた白洲次郎の遺言はたった二行・・・。
「葬式無用。戒名不用」