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会えば必ず喧嘩勃発?歴史上で有名な犬猿の仲だった人たち

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職場や学校などで何か失礼なことをされたとか明確な理由があれば相手を嫌うのは当然ですが、取り立てて何もないのに何故か「あいつのことは気に障る、いけ好かない」と思うことがありますよね。

 

そしてそんな空気を出しているとそれは必ず相手にも伝わるもので、いつの間にか口も聞かない仲になることも。

 

それがいじめにつながったり大きな社会問題になっているわけですが、現在でもそうであるならそのような感情は昔からあるのは当たり前のことですよね。

 

それが歴史に名を残す人物同士なら後世まで多くの人が知るところになります。果たして歴史上での有名な犬猿の仲にはどのような人たちがいたんでしょうか?

 

中にはかなり意外な組み合わせもありますよ!

 

そもそも何故仲が悪いことを犬と猿に例えるのか?

 

仲の悪い間柄を何故「犬猿の仲」と呼ぶようになったのかかは諸説ありどれが本当なのかは分かってはいません。

 

狩猟の際に狩猟犬を見た猿が激しく威嚇したので、それを見た猟師たちが犬と猿は仲が悪いと思ったからという説。

 

神様が十二支を決めるため動物たちを呼び出したとき、猿が犬を騙してわざと遅れるように仕向けそれを犬が恨み仲が悪くなったという説。

 

人間と共生してきた犬は人間のテリトリーを守ろうとしますが、猿は自らの縄張り意識が強く人間の作った作物を奪っていく性質の違いから来るという説。

 

まだまだあるようですが大昔から犬と猿は仲が悪いとされてたことは事実のようですね。

 

それでは歴史上の人物たちはどうだったんでしょうか?

 

伊達政宗VS浅野長政

 

伊達政宗はご存知「独眼竜」の異名を持つ初代仙台藩主で、加賀の前田家薩摩の島津家に次いで日本第3位の62万石の領地を持つ大大名で官位は従三位権中納言

 

一方の浅野長政は秀吉の妻である北政所と姻戚でもあり秀吉に重用され、豊臣家5奉行のひとりにも名を連ね官位は従四位下侍従。

 

 

ふたりとも筋金入りの戦国武将ですが元々は秀吉に対するお取次を長政が務めており、政宗も長政を頼りにし決して仲は悪くなかったそうですが正宗はいきなり長政に絶縁状を送りつけます。

 

内容は「これまではあんたを頼りにしてなんでも言うことを聞いてきたつもりだが、太閤殿下に自分の領地を自発的に進上せよという指南は到底納得しかねる!それにあんたは俺の大嫌いな蒲生氏郷や木村良清と仲が良いのも気に入らん!だからあんたとはこれ以上付き合うことは控えさせてもらう。尚この書状のことを太閤殿下にチクるならそれでもいいからな!」

 

その他まだまだいろいと不満をぶちまけていますがとなんと激烈な絶縁状ですね。長政の交友関係にまで口出しするのはいささか行き過ぎだとは思いますが、これを受け取った長政もさぞや頭にきたでしょうね。

 

その後正宗と長政は亡くなるまで和解することはなく、伊達家と浅野家は江戸時代になってもずっと犬猿の仲のまま。

 

一度幕府重臣から和解話が持ち上がりましたが伊達家中の猛反対で実現せず、やっと和解が成立したのはなんと1994年!

 

伊達家と浅野家の和解茶事が催され両家は398年振りの和解を果たしました。正宗と長政がこれを知ったら喜ぶのか「余計なことを・・・」と怒りだすのかどちらでしょうねぇ。

 

石田三成VS豊臣7将

 

これは司馬遼太郎の「関ヶ原」でも詳細に描かれているように多くの人が知る有名な対立ですね。

 

問題の7将とは加藤清正、福島正則、細川忠興、黒田長政、池田輝政、加藤嘉明、浅野幸長で秀吉の死後から密かに三成襲撃の計画を練り、5大老のひとり前田利家の死去で止める者もなく歯止めが効かなくなり実行に移したとされています。

 

この問題の根底には秀吉の出身地である尾張衆と秀吉が近江長浜城主になってから召抱えた近江衆の対立があると言われています。

 

戦場において勇猛果敢な尾張衆とどちらかと言えば文治派の近江衆とでは水と油、お互い気に食わないと思っていたことでしょうね。

 

特に秀吉が天下を取ってからは武断派は遠ざけられ組織運営に長けた文治派を重用するようになったため、武断派としてはその無念を秀吉に向けるわけにもいかずすべて文治派に向けられます。

 

そして決定的なのが文禄・慶長の役で武断派は戦の最前線へと向かい、文治派は後詰に回り戦費や船での輸送を担当することになりましたが、現地での視察に行った戦目付である文治派の秀吉への報告が捏造されたものであり、それが原因で秀吉から手酷い叱責を受けたと信じた武断派は文治派への恨みをいっそう募らせることに。

 

もうこうなったら武断派を止めることはできませんね。彼らは日本へ帰ると同時に三成襲撃計画をたてついにそれを実行しようとしますが、事前にそのことを知った三成は伏見徳川屋敷に逃げ込み家康の仲裁を仰ぐことになります。

 

三成は奉行職を解かれ領地の佐和山に蟄居することで事件はようやく収束しますが、結局ひとりで責任を取らされた三成は少し気の毒だったような気がしますね。

 

そしてここからご存知の関ヶ原とつながっていくのですが三成憎しの感情に凝り固まった7将たちの行動が、家康に政権奪取のシナリオを描かせそれが関ヶ原での勝利へそして豊臣家の滅亡につながったという見方もできます。

 

三成の死後に大阪城を訪れた浅野幸長が「三成がいなくなってから大阪城の風紀が乱れた」と言ったそうですがあれほど三成を嫌っていた幸長にそう言わせるのですから三成が豊臣家の優秀な官僚であったことは間違いないようですね。

 

本多忠勝 榊原康政VS本多正信

 

「家康に過ぎたるものがふたつあり 唐のかしらに本多平八」と謳われ名槍「とんぼ切り」を持ち戦場を縦横無尽に駆け回った徳川四天王のひとり本多忠勝。

 

初代桑名藩主で官位は従五位の下中務大輔。

 

そしてもうひとりは同じ四天王榊原康政。忠勝とは同い年でふたり揃って家康の旗本先手役という重要なポジションにつき、一向一揆では家康から「康」の一字をもらうほどの働きを見せました。

 

また小牧・長久手の戦では秀吉本人に「信長公の恩も忘れて主家を乗っ取った不届きものめ」という手紙を送りつけ、怒り狂った秀吉が「康政を討ち取った者には10万石を与える」と言った有名なエピソードもあります。

 

いくら腹が立ったとはいえ10万石といえば相当な大名家の領地に匹敵する石高ですから、秀吉の怒りも頂点に達していたんでしょうね。

 

のちに上野館林の初代藩主で官位は従五位の下式部大輔。

 

一方の本多正信は一向一揆で一度は家康の元を去りますがのちに帰参し、家康の寝所まで出入りを許されるという最重要のブレーンとなります。

 

司馬遼太郎は家康と正信の関係を「謀友」と表現しましたが、この言葉はふたりの関係を見事に表していますね。

 

そんなタイプの正信ですから後世では豪快な武将とは程遠く「根暗で腹黒い」というイメージが定着しています。

 

領地は相模玉縄で官位は従五位の下佐渡守。

 

彼らの対立も豊臣家と同じように天下を取るまでは武功に優れた武将たちを優遇し、太平の世になると官僚派を重用。

 

武断派を幕府中枢から遠ざけたことに原因があると考えられます。やはり家康も秀吉と同じようにいざ政権運営には武功一辺倒の武将よりも知略に優れ実務能力のある者に重要なポジションを与えるのは当然といえば当然の話ですね。

 

事実正信は朝廷と折衝を重ね家康を征夷大将軍にする道筋を作ったと言われているほどですがらタフなネゴシエーターであったことは確かだったと思われます。

 

その後正信は幕府内で絶大な権力を手中に収めのちの大老に匹敵する位置へとつくことになります。そうなると黒い噂が立つのは今も昔も変わらないことで大久保忠隣を失脚させたのは正信だったと現在でも言われています。

 

目立った武勲を挙げていないくせに権力の座につくとそれに激しく反発するのが武断派であるのは豊臣家も徳川幕府も同じですね。

 

特に四天王の忠勝、康政は若い頃から終生正信を嫌いぬいていたようで家康から病気見舞いの使者を送られた忠勝は「それがしも腰が抜けてこの有り様で」と答えたそうです。

 

これは常々忠勝が正信のことを「佐渡の腰抜け」と呼んでいたことになぞらえたようで、康政もまた晩年病気見舞いの使者に「それがしも腸が腐りこのように」と答えます。

 

これも康政が正信を「腸の腐れもの」と呼んでいたことからで身内からの評価はもう散々なものですね。

 

しかしこのような家臣同士の対立がありながら騒動に至らなかかったのは、家康が長生きして体制が盤石であったこと、そして世継ぎがいたことが大きかったと思われます。

 

やっぱり家康は強運の持ち主でしたね。

 

三条実美VS岩倉具視

 

維新の元勲で共に公家出身という共通点がありますが維新までの過程、そして出自や性格はまるで正反対のふたりです。

 

三条は五摂家に次ぐ名家出身で生まれながらの超エリート、対して岩倉は家格の低い家に生まれた下級の公家。

 

人柄も温和で気弱な三条と公家らしくない豪放で不敵な性格の岩倉。またその思想においても長州と行動を共にするバリバリの攘夷派である三条に対して、薩摩に近い公武合体派の岩倉とどこまでも相容れないのがこのふたり。

 

そもそもこのふたりの仲がここまでこじれたのは皇女和宮の降嫁が原因だったと言われています。

 

和宮は徳川14代将軍家茂に嫁ぎましたがそれによって幕府と朝廷がつながることになりますね。そしてこの降嫁を推し進めたのが岩倉をはじめとする公武合体派でした。

 

これに怒った三条は公武合体派のリーダー岩倉を廃しようと、関白近衛忠煕に岩倉弾劾書を提出します。

 

これには岩倉も黙っておれず薩摩、会津と組んで「八月十八日の政変」を起こし京都から長州藩と三条はじめ長州派の公家を追放します。これが世にいう「七卿落ち」。

 

これでは犬猿の仲と言われても仕方のないところですね。ふたりは維新前に一度は和解したようですが維新後に征韓論をめぐって再び対立します。

 

征韓論はときの政府を二分するような大議論になったのですが反対派の岩倉に対し、三条は反対賛成両派の板挟みになってしまいます。

 

そして結局賛成派に押し切られるという形になりますが岩倉は納得できず三条に辞表を提出、三条は心労のあまり倒れてしまいます。

 

このあたりがエリートのひ弱さでしょうか?それに引きかえ征韓論を潰した岩倉は雑草魂持っていた政治家だと言えるでしょうね。

 

明治政府内でも廃藩置県はじめ国家の重要な政策の決定に常に関わり、岩倉使節団の全権大使として海外に渡ってそれを参考に政策立案して行った岩倉に対し三条はどちらかといえばシンボリックな存在だったようで。

 

やはりどこまで行っても正反対のふたりですね。

 

東條英機VS石原莞爾

 

昭和の陸軍にはかつての反長州派の流れをくみ天皇中心の皇軍思想を源流とする皇道派と、軍中枢部での統制を元に国家を運営する統制派というふたつの激しい派閥抗争がありました。

 

東條英機は統制派のトップとして陸軍を主導し皇道派の一掃をはかり、現役の軍人として内閣を組織し総理大臣兼陸軍大臣権内務大臣という3つの主要ポストにつくなど絶大な権力を誇りました。

 

東條自身周囲からは権力欲の強い人間だと思われていたようですがその反面満州においてナチスからの迫害を逃れてきた多くのユダヤ人たちを、のちの陸軍中将樋口季一郎が脱出させたオトポール事件で同盟国であるドイツからの抗議を「これは人道上当然の処置である」と一蹴するという一面も持ち合わせていました。

 

東京裁判の影響もあり戦後は日本を戦争へと導いた張本人のように捉えられていますが、このことに関しては海外のジャーナリストも「東條の功績は非常に大きい」と評価しています。

 

そしてその東條の天敵とも言える石原莞爾は最終階級は陸軍中将。軍人でありながら「世界最終戦争論」などを記し軍事思想家でもあり関東軍作戦参謀として満州事変の首謀者でもありました。

 

皇道派にも統制派にも属さず自らを「満洲派」だと名乗り陸軍の異端児と呼ばれた石原ですが、二・二六事件では反乱軍相手に凄まじい気迫を見せています。

 

当時参謀本部作戦課長だった石原が参謀本部に登庁すると反乱軍の安藤大尉がそれを阻止しようとしますが「陛下の軍隊を私するな。この石原を殺したければ貴様の手で殺せ」と一喝!また庁内においてもピストルを突きつける栗原中尉に対し「こんなことはすぐにやめろ。やめねば討伐するぞ」この石原の気合いに気圧された安藤も栗原も何もすることができなかったと言います。

 

石原は東京警備司令部参謀として反乱軍鎮圧の先頭に立ち見事事件を解決に導きます。これを聞かれた昭和天皇は「石原という人間はどんな人間なのか、満州事変の張本人でありながらこの態度は正当なものであった」と述べられたそうです。

 

事件の鎮圧によって皇道派は力を失い軍の実権は統制派が握ることになりますが、鎮圧の功労者である石原は統制派のドン東條を徹底的に批判します。

 

満洲国の戦略構想で対立すると「東條上等兵」と呼んで馬鹿にしたり「憲兵隊しか使えない女々しい奴」とことあるごとに登場を罵倒。

 

これには東條としても黙ってはいられないですね。石原を参謀副長から舞鶴要塞司令官に左遷、そしてついに開戦前の1941年予備役に編入され現役を退かせるという報復措置に出ました。

 

そんな石原の最後の檜舞台が戦後行われた東京裁判に証人として出廷したときでした。法廷で判事が「日清・日露までさかのぼって戦争責任を追及する」と言ったことに対し石原は「それならペリーをあの世から連れてきて裁けばよい。日本に略奪的な帝国主義を教えたのはアメリカだ」と答えさらに東條との対立を問われると「私には些細ながら思想があるが東條には思想がまったくない。思想がない東條と対立のしようがない」と答えます。

 

ここまでくるとふたりは犬猿の仲というよりもやはり天敵という言葉がふさわしいようですね。

 

まとめ

 

人間同士の営みの中で全員の仲がいいということはあり得ないことなのかも知れないですが、こうして歴史上の人物たちの仲の悪さを考えてみると現代にも通じるところがありますね。

 

これを読みながら誰かの顔を思い浮かべている方もいらっしゃると思いますが、まあまあそこはなるべく穏便に過ごしてくださいね!

 

 

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