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歴史ミステリー?3つの珍説を考察する2♪

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rintaro95.hateblo.jp

 

歴史や歴史的な事件に対するスタンスは立場によって違うようで、例えば学者は史料として存在しない事柄に対しては容易に認めようとしませんね。

 

ところが作家はエンタテイメントを意識する職業柄か、史料を自分なりに読み解いて解釈しています。歴史小説と言えどもあくまでフィクションの世界ですから、これは致し方がないと言えるでしょうね。

 

新しい事実が発見されたときなど「新説」や「真説」として発表されることもありますが、中にはどう考えても「珍説」としか言いようのないものも少なくありません。

 

そこで今回もそんな「珍説」を自分なりに考察して行きましょう。

 

坂本龍馬暗殺は本能寺の変の復讐だった!

 

もうタイトルからして怪しさが漂って来ますね。

 

ざっくりと説明すると龍馬暗殺犯は見廻組で実行犯は今井信郎。これは彼の供述調書からも明らかであり間違いのないこと。

 

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しかし竜馬暗殺には影の黒幕がいた。その人物とは暗殺の二ヶ月前に幕府の勘定奉行の座についた織田和泉守。織田の家系をたどると信長に行き着く。そして明智光秀の子孫である龍馬を政治的背景ではなく、個人的な恨みから今井に命じて龍馬を暗殺させた。

 

とまぁこういう訳で龍馬暗殺は本能寺の変の敵討ちであったと言うのですが・・・。

 

この説の根拠として上がっているのが、まず近藤勇や小栗上野介は処刑されているのにもかかわらず今井は謹慎だけで済んでいること。そしてその身柄を引き取ったのが静岡藩であること。

 

そして静岡には当主徳川家達に従って移住した織田和泉守がいたこと。明智の子孫龍馬暗殺犯である今井のそばに信長の子孫織田和泉守がいたことは果たして偶然であろうか?などと煽ってますが・・・はい!偶然です!

 

更に明治維新前の幕府は経済的に逼迫していたのに、何故か見廻組だけは大量増員されていてその中に今井がいた。しかも今井は短期間で「肝入」という役職に抜擢された。これは織田和泉守が今井を竜馬暗殺犯として白羽の矢を立てたからだと解説されています。

 

ということは織田和泉守は暗殺のかなり前から、今井を知っていて彼を竜馬暗殺のために見廻組に送り込んだと解釈出来ますね。

 

ところが今井信郎のひ孫によると、今井家に伝わる話しとして龍馬が潜んでいる近江屋に数人で行ったが誰が実行犯になるかくじ引きで決めたそうです。そしてくじに当たったのが今井でしたが、今井は当初それを嫌がってもう一度くじ引きをすることを要求。

 

周りがその要求を受け入れ二度目のくじ引きをしたが、またもや今井に当たりくじが!それで仕方なく実行したそうです。

 

今井自身の証言として伝わっているこの話しが事実だとすれば、今井が織田に送り込まれた刺客だという説にはかなり無理がありますね。

 

真っ先に突入するはずが二度までもくじ引きを要求している訳ですから、彼が暗殺にはあまり乗り気ではなかったようですね。

 

それよりも本能寺の変が起こったのが1582年で龍馬暗殺が1867年、例え龍馬が明智の子孫だとしても285年前の先祖の恨みを果たすことはいくらなんでも考えられませんね。

 

これは珍説決定でよさそうです。

 

上杉謙信は女性だった!

 

これはかなり有名な説ですね。元々は小説家の八切止夫がスペインのトレド修道院で船乗りが国王に提出した佐渡金山に関する報告書に「上杉景勝の叔母が開発した」と書かれていて、景勝は謙信の姉の息子で他に女兄弟はいなかったことから謙信女性説を提唱したのが始まりです。

 

さらに西遊記の三蔵法師玄奘が記した「大唐西域記」に、ある国王が世継ぎが出来ないことを嘆き、毘沙門天にお参りすると毘沙門天の額が割れそこから飛び出した赤子を授かり育てたが、乳を飲まないので再度毘沙門天にお参りすると地面が隆起し乳房になりその乳を飲んで育った。

 

つまり毘沙門天は大地の女神地母神である。よって毘沙門天の化身であると称する謙信は女性である。

 

その他謙信は生涯妻も側室も持たず不犯を貫いた。これは毘沙門天の化身となり戦で不覚を取らないためだと言われているが、武将として大切な世継ぎを残さないのは女性だったためである。

 

また謙信は毎月10日前後に「虫気」つまり酷い腹痛を起こしていた。これは女性特有の生理現象であるという説や、謙信の肖像画にはひげがあるがこれは江戸時代に描かれたもので、戦国時代に描かれたものにはひげがなく女性的な顔立ちであるという説。

 

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そして決定的証拠と言われているのが謙信が「源氏物語図屏風」を贈られたことで、この屏風は女性の婚礼調度用に仕立てられたものが多く、戦国時代にこの屏風を贈られた者は謙信以外になくしかも何と贈ったのが織田信長!なんと信長は謙信が女性であることを知っていた!

 

これを決定的証拠と言われても困りますねぇ。さらに驚くべきことにライバルの武田信玄も毎月一回数日間寺にこもっていたことから、これも女性の生理現象だとして女性説まで存在しています。

 

と言うことはあの川中島での一騎打ちは女性同士?なんて言う珍説中の珍説が出来上がったしまいますね。

 

私は謙信が男性であったことは。

1 男性でなければ出家出来ない林泉寺に入門し出家した。

2 女人禁制の高野山に僧侶清胤に会うため上洛するたびに通い後に弟子になった。

 

この2点だけで充分証明出来ていると思います。これもまた珍説のひとつでしょうね。

 

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関ヶ原の勝敗の鍵を握っていたのは春日局!

 

よく知られているように関ヶ原での西軍の敗因は、毛利や島津に長宗我部など西国の大名たちが着陣しながらも参戦しなかったこと。

 

そして何と言っても三成にとって思いもしなかった秀吉縁故である小早川秀秋の裏切りにあったことは歴史的事実ですね。

 

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ではその裏切りを画策したのは一体誰なのか?小早川家の家老稲葉正成が秀秋に裏切りを進言したのは事実のようですが、そのように仕向けたのは正成の妻である春日局!

 

春日局は明智光秀の家臣であり姻戚関係である斎藤利三の娘で、本能寺の変のあと秀吉によって父が処刑され豊臣家に恨みを抱いていて夫を焚き付けて裏切りを進言させた。

 

そして春日局は岡山城主となった秀秋を毒殺。家康はその功績に報いるため慶長八年三代将軍となる家光の乳母に抜擢、その後大奥の女帝と呼ばれる権力を手に入れ夫である正成も美濃で一万石を与えられ晴れて大名となった。

 

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 以上がこの説の内容ですがもう突っ込みどころが満載ですね。関ヶ原での功を認めれた秀秋は備前岡山の大領主となりますが21歳で変死。

 

家臣や領民を次々と手討ちにするなど乱行が目立ったいたのも事実で、毒殺説も信ぴょう性はありますがそれを実行したのが春日局とは!

 

家老たちが実行犯だという可能性はありですが、家老の妻が主君毒殺を図るなどまさにトンデモ本の世界ですね。

 

通説によると乳母募集の立て看板を見て応募し採用されたのが慶長四年ですが、史料によるとその一年前の慶長三年には江戸城に入っていたとされています。

 

春日局が家光の乳母になったのが慶長八年で、夫稲葉正成が大名になったのが慶長十二年ですから春日局の功績によって大名として取り立てられたとこの説では主張しています。

 

しかしこれ事実とは真逆なんですね。乳母になるために正成とは離婚というかたちを取った訳ですが、乳母の選考にあたり家柄や公家の教養はもちろんですが、採用された最大の理由は夫正成が関ヶ原において秀秋を裏切らせ東軍を勝利に導いた功労者だったからです。

 

正成は春日局と離婚したあと大名になりましたが、息子の正勝が家光の小姓になり更に老中へと出世したのも正成の功績によるものです。

 

天下分け目の戦いでその勝利によって家康の天下になった訳ですから、その勝因を作った正成の功績はそれだけ大きなものだったと言えるでしょうね。

 

今回の珍説も参りましたというべき内容のものでした。しかしこうした解釈があってもいいと私は思います。

 

解釈は自由、そしてそれを考察するのもまた自由というところですね。

 

 

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