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ほんとは生きていた?!日本史に残る7人の生存伝説を検証してみた⭐︎

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日本史には「実は生きていた!」とまことしやかに生存伝説が語り継がれている人物がいますね。

 

特に日本はこの類のエピソードが多くなんとイエス・キリストや楊貴妃も実は生きて日本に逃れたと言う伝説があり、イエス・キリストは青森県に楊貴妃は山口県にお墓まで存在します。

 

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 しかしどちらも正式な案内標識であるところが笑ってしまうと言うかなんと言うか・・・。

 

海外の歴史上の人物の生存伝説があるくらいですから、これが日本史に登場する人物になると中世から明治までかなりの数に上ります。

 

やはり日本人は昔からこの種の話しが好きだったんですね!まぁこれも歴史のロマンのひとつと言えそうです。

 

そもそも生存伝説はなぜ生まれるのか!その条件は?

 

日本史における生存説が語りづ継がれている人物の大きな特徴は。

 

悲劇的な死を遂げていること

大衆に人気があること

体制に毅然として立ち向かう勇気を示したこと

 

これらの条件が当時もそして後世においても大衆から支持され、もっと生きていて欲しかったと言う人々の思いが生存伝説につながったのだと思われます。

 

さてそれでは日本史上で有名な生存伝説の持ち主を年代順に並べて行くと・・・。

 

 鎮西八郎為朝

 

      

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個人的には日本史における最強のとんでもエピソードの持ち主だと思っているのが鎮西八郎為朝!

 

身長2m10cmと言うとてつもない大男で五人張りの強弓を手にした勇猛ぶりは、都の内外に知れ渡り「吾妻鑑」にも「無双の弓矢の達者」と記されています。

 

その為朝も保元の乱に敗れ伊豆大島に流されますが、そこでも狼藉を働いたと追討軍を送られ奮戦の果てに自刃したとされています。

 

しかし密かに大島を脱出した為朝は琉球に上陸、その勇猛ぶりでこの地を平定し現地で生まれた子が初代琉球王舜天になったとされていてこれは琉球王朝の正史「中山世鑑」にも記されており、大正11年には為朝上陸の碑が建立され元帥東郷平八郎の名も刻まれています。

 

 また為朝の武名は江戸時代になっても衰えることはなく疫病が流行ると、為朝の勇猛さに病気が恐れをなして退散するよう門に「為朝の宿」「為朝ここにあり」と書かれた札を貼るおまじないが広く行われたそうです。

 

まったく大した男だ!

 

源義経

 

      

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生存伝説と言えば真っ先に名前が挙がるのが日本史で最初に出現したアイドル義経です!

 

よく知られているのが義経=チンギス・ハーン説ですね。これは江戸時代の医師で学者のシーボルトも信じていたそうですが現在ではほとんど都市伝説とされています。

 

そのほかでは衣川で自害したのは義経の影武者だった杉目太郎行信。義経は北へ向かい蝦夷に渡って狩猟や稲作などをアイヌの人々に教えた「オキクルミ」として崇められた。

 

またアイヌ研究家の小谷部全一郎はシベリア出兵の際、「観劇していたらある場面で笹竜胆の家紋の入った甲冑を身につけた役者が現れた」と記しています。

 

小谷部はその役者に「なぜ笹竜胆が入っているのか」と尋ねると「昔から伝わっているので分からない」と答えたそうです。

 

そしてナホトカに笹竜胆の家紋が入った家が存在したり、義経の官名である「ハンガン岬」という地名があり義経はロシアに渡っていたと推測しています。

 

いずれも俗説の域を出ないですが今もなおこのような生存伝説が語られている背景には、大衆からの人気と判官びいきが大きく影響しているようですね。

 

 

 

明智光秀

 

       

 

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生存伝説が生まれる条件は前述しましたが光秀は悲劇的な最期を遂げ体制打倒を計ったことは事実ですが、「主殺し」「謀反人」のイメージが強く大衆に人気があったとは決して言えないですね。

 

ただ光秀の死に関しては謎が多いのも事実で小栗栖村の林の中を馬を進めていると、落ち武者狩りの竹槍に刺されて討たれたとされていますが、周囲を警戒していたはずの家臣たちがなぜ事前に察知できなかったのか。

 

また討たれたのが光秀だけあること、鎧の上から竹槍で突いて致命傷を与えることができるのかなど。

 

首をかしげざるおえないこともあります。となるとやはりお決まりの生存伝説が登場するわけですね。

 

それによると光秀は落ち延びて後に徳川家康のブレーンである南光坊天海になり家光の時代まで仕えたと言う説はよく知られています。

 

・天海の出自や年齢が不詳で側近にされ決して語らなかった。

・その根拠として日光の明智平という地名は天海が名付けた。

・家光の乳母は光秀の重臣斎藤利三の娘である。

・天海の墓が光秀の居城があった近江坂本にある・・・等々。

 

すべて後付けの理由のようにも思われますが歴史好きにとってはこういう説があってもいいじゃないかというのが正直なところですね。

 

島 左近

 

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「三成に過ぎたるものがふたつあり 島の左近と佐和山の城」

 

当時このような狂歌に読まれ徳川家の本多平八郎忠勝と並んでに勇名を馳せた島左近。

 

そして左近と言えばやはり関ヶ原での奮戦ぶりで、大谷吉継と共に敵味方双方から賞賛されています。

 

関ヶ原で直接左近とぶつかった黒田長政の家臣は後日左近について「かかれぇ〜」という声だけが耳に残って当日左近がどんな甲冑をつけていたのかまったく覚えていないと語ったことが記録に残っています。

 

それほど勇猛果敢な名将だったわけですね。

 

さて関ヶ原では奮戦むなしく討ち取られたと言われている左近ですが、東軍が本陣に持ち帰ったのは左近の兜だけで遺体も発見されず首実検にもかけられていません。

 

そこから左近の生存伝説が各地で囁かれるようになりました。滋賀県の余呉町には左近が逃げ込んだ洞窟が「殿隠し」と呼ばれ島屋敷跡も存在します。

 

また京都に出て僧侶になったとも言われ上京区の立本寺には左近の墓があり墓石には左近の名前がはっきりと刻まれています。

 

事実はどうあれこれほどの武将は生きていたと同時代の人間でも思っていたことは間違いないですね。

 

 豊臣秀頼・真田信繁(幸村)

 

 

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「花のようなる秀頼様を 鬼のようなる真田が連れて 退きも退いたり加護島(鹿児島)へ」

 

大坂の陣で豊臣家が滅んだあと上方ではこのようなわらべ唄が歌われていたそうです。すでにその当時からこのふたりの生存伝説は始まっていたんですね。

 

197cm160kgの巨漢だった秀頼をどう考えても花のようなると形容しがたいとは思いますが、関白であり天下人の息子で自身も右大臣という高貴な身分はこのような表現が適当なのかも知れないですね。

 

一説によると大坂の陣で薩摩の島津家が大坂城へ兵糧500石を入れる許可を家康から取り、城を後にするとき密かに秀頼と信繁を脱出させたと言われています。

 

この説にはあまり信憑性がないように思いますが当時から、秀頼、信繁の生存説は庶民の間では信じられていたようです。

 

 事実鹿児島には秀頼、信繁両人のものと伝わっている墓が存在し、秀頼は谷山を治めていた領主にかくまわれたとされ墓もその地にあります。

 

土地の伝承によると秀頼は大酒呑みでおまけに酒癖が悪く、酔って所かまわず寝たり人に乱暴したりで「谷山の酔喰」と呼ばれ鼻つまみ者だったとか。

 

地元の人たちも腹に据えかねていたそうですが藩から手出しは禁止と厳しく申しつけられて我慢するしかなかったようです。

 

太閤秀吉死後はは過保護な母にわがままいっぱいに育てられた結果そうなったんでしょうが、地元の人たちもさぞ迷惑だったでしょうね。

 

そして現在も谷山には秀頼のものと伝えられたお墓が存在します。

 

一方の信繁は秀頼とは別れ現在の南九州市に落ち着いたと言われています。信繁が住んだ地区の名は「幸丸」と言いこれは「幸村」をもじったものと地元では伝わっています。

 

秀頼はともかく信繁の薩摩行きに関しては松代藩主真田幸貫が「幸村は薩摩に行きたるとおぼし」と松前藩主松浦静山に語った記録があるので、少なくとも真田家では信じられていた説のようですね。

 

ちなみに「島原の乱」を起こした天草四郎時貞は秀頼の息子で秀吉の孫にあたるという説もありますが・・・これはかなりの眉唾ですね。

 

西郷隆盛

 

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これまでに登場した人物たちとは時代背景が違うとは言えひとりの人物の生存伝説が、2国間の外交問題に発展しかけたんですからこの当時の西郷の影響力は本当にすごいものがありますね。

 

西郷は西南の役に敗れ城山で自害するのですがすでにその直後から生存伝説がささやかれていました。

 

その戦の最中にも地球に接近した火星の人々は「西郷星」と呼んで大騒ぎしたいたそうですから西郷が朝敵の身分を解かれ正三位を送られてから、公然と西郷生存説が語られるようになりました。

 

その最たるこのがロシア皇太子ニコライ二世が来日が決まると「西郷はロシアの軍艦に救われロシアに渡っていたが、ヨーロッパ視察中の黒田清隆と会談し帰国を約束、皇太子と共に来日する」という記事が新聞にまで載るように。

 

これに焦ったのが西南の役に従軍し勲章を受勲しその後警察官になっていた津田三蔵。

 

彼は西南の役の激しい戦闘で精神を病み入退院を繰り返して勤務態度にも問題があったようですが、西郷が戻ってくると自分の受勲が取り消されてしまうという危機感を持っていました。

 

被害妄想も甚だしいですが警備を担当していた滋賀県大津市で突然ニコライ二世に斬りつけるという事件を起こします。

 

この事態に明治天皇が京都まで見舞いに訪れ帰国する皇太子を神戸まで見送りに行くという気遣いを見せています。

 

のちに戦争になる日本とロシアですが当時は皇太子も親日家で、紛争に至らなかったのは幸いでしたね。

 

この事件ひとつを取っても当時の人々が西郷をどのように思っていたのは一目瞭然ですね。

 

こういうところも彼の偉大さの表れなのかも知れないですね。

 

 

 歴史の楽しみかたは自由!

 

生存伝説や民間の伝承をトンデモ説だと一蹴するかたも多いですが、何も資料至上主義だけが歴史の楽しみかたではありませんね。

 

事実はひとつであっても物事にはいろんな側面があるように、歴史もまた見ようによっては様々な楽しみかたがあります。

 

たまには少し頭を柔らかくして伝説を楽しんではいかがですか?

 

 

 

 

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