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狂歌に残る戦国武将はやっぱり凄かった!

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歴史ブーム戦国ブームと言われて久しいですね。

 

近年では大河ドラマの歴史的観光地に多勢の観光客が押し寄せたり、歴史好き、歴史通の女性を表して「歴女」なる言葉も生まれました。

 

大名や武将に関するエピソードもあらゆる媒体で紹介され、以前なら一部熱狂的ファンしにしか知られていなかった武将にスポットが当たるようにもなりましたね。

 

そして現在でも狂歌として残る武将とはいったいどんな男たちでしょうか?

 

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「家康に過ぎたるものがふたつあり、唐のかしらに本田平八」♪

 

言わずと知れた酒井忠次、榊原康政、井伊直政と並ぶ徳川四天王のひとり本多忠勝!

 

一言坂での甲斐武田軍のとの戦いでしんがりを務めた忠勝の勇猛ぶりを敵の武田軍が狂歌によって賞賛したのは有名な話しですね。

 

因みに唐のかしらにとは、兜につけるヤクの尾毛の飾り物で、当時非常に高価とされていました。

 

そして忠勝と言えばもうひとつの代名詞が名槍「蜻蛉切り」!

 

笹穂型の大槍で穂先に止まったとんぼが真っ二つになったといい「天下の三名槍」のひとつに数えられています。

 

生涯戦ったいくさは大小合わせ57回に及んだものの、かすり傷ひとつ負ったことがないと言われて猛将ですが。

 

このタイプの武将は乱世に武功を上げてこそで、太平の世になるとやはり官僚タイプの武将に取って代わられます。

 

しかし戦国のロマン漂わせた武将であることは間違いないでしょう。

 

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「三成に過ぎたるものがふたつあり、島の左近に佐和山の城」♪

 

「過ぎたる」シリーズ第二弾!

 

天下分け目の関ヶ原の戦いで奮戦した石田三成の家臣島左近清興!

 

秀吉から近江佐和山4万石を賜った三成が、そのうち1万5千石という常識はずれの石高で三顧の礼を持って迎えた武将。

 

関ヶ原での最後の狂気じみた戦いぶりは、敵側の黒田長政の家臣も恐怖を感じたようで。

 

「常山紀談」によると、関ヶ原から数年過ぎても左近の戦場での鬼神のような奮戦に悪夢にうなされたり。

 

戦場の左近の甲冑、陣羽織の色がどうしても思い出せず、当時石田家に仕えていたものに聞いて初めて分かったのを恥じるように「かかれ~」という声だけが耳に残って、それ以外は思い出せなかったといいます。

 

関ヶ原で戦死したとされていますが、その後京都で左近を見たという言う者が相次いだなど、ミステリアスな武将ですね。

 

 

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「江戸のもがりにさわりはすとも、よけてとうしゃれ帝釈栗毛」♪

 

若くして「賤ヶ岳七本槍」のひとりに数えられ、文禄・慶長の役では虎狩りの勇将として、そして難攻不落の名城熊本城を作った築城の名人加藤清正を謳った狂歌!

 

「もがり」とは江戸初期街にたむろしていたならず者のことで、ならず者にぶつかったとしても清正の愛馬である帝釈栗毛を見かけたらよけた方が身のためだと、清正の勇名を表したものです。

 

熊本城は西南の役でも薩軍が落とせなかった城で(攻め手のまずさもありましたが)難攻不落は偽りではなかったんですね。

 

これは江戸に幕府がひらかれた清正晩年の狂歌ですが、その時期でも清正が豪将として名高かったことを証明していると思います。

 

しかし清正の息子忠広の代で加藤家は改易、家名は残りませんでしたが現在までその名を轟かせてのは凄いですね。

 

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「侠(おとこ)見たけりゃ会津においで、会津若松お発ち飯」♪

 

これは個人を謳ったものではなく、豊臣家大老会津120万石の大大名上杉景勝率いる軍団を謳ったものです。

 

「お発ち飯」とは越後の虎と言われた父謙信は越後時代から、いくさに出陣する日に城内でご馳走を用意し将兵に食べさせた儀式で、会津転封になってもそれが続いていそうです。

 

景勝の時代には大河ドラマで有名になった直江山城守兼続、この人は「直江書状」始めいろんなエピソードがあります。また人気の前田慶次郎利益も景勝の家臣で。

 

召し抱えられた当初「大ふへんもの」という旗指し物を「武をもって成る上杉家で大武辺者とはなにごとか!」と言われ「拙者は家族もなく独り身なので、これは大不便者という意味です」と諧謔を込めた答えをしてと言われています。

 

また景勝は極端に無口な人で、そのためか家臣が景勝を恐れること尋常ではなく。

 

後年「大阪の陣」において、軍船に乗り込んだ景勝が兵が多く乗りすぎ船が進まないことに苛立ち、サッと軍配をひと振りすると家臣たちは競って淀川に飛び込んだと言います。

 

このような家臣を抱える上杉家は、謙信以来の武門の家としてその後米沢に移封されても続いたのは、やはり上杉の名は当時から畏敬を持って見られていたんでしょうね。

 

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「奮迅敵の中堅に、活路(みち)をもとめて駆け込ます」♪

 

「島津に暗君なし」と言われているように、薩摩島津家は名君揃いで知られています。中でも猛将として勇名を馳せた島津義弘!

 

ご存知関ヶ原で西軍に味方しますが、戦場で動かず西軍が敗戦濃厚になって敵中突破で危機をくぐり抜けた猛将です。

 

薩摩な古来の隼人の時代より勇猛で知られ、文禄・慶長の役でもそのあまりの兵の強さに朝鮮の家で薩摩の家紋が厄除けとして家の玄関に貼られていたそうです。

 

これらの武将の時代は戦場での武勲が、その人物の評価に繋がりましたが太平の世になると組織運営に長けた官僚タイプが権力を握り、生きにくい時代になったと思われますが、いくさのない世が理想なのは間違いないことですね。

 

猛将がいきいきと生きられた時代、それは正に乱世ということです。

 

しかし乱世に備えることも国家運営には大切だと思います。

 

 

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