鎮西八郎為朝は日本史上最強のとんでもエピソードの持ち主だった!

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 歴史好きが何人か集まって話していると必ずと言っていいほど好きな武将の話しになりますが、誰の名前を挙げるかでその人の好みのタイプが分かって面白いですね。

 

猛将、智将、謀将など歴史上では様々なタイプの武将が存在しますが、私はやはり豪傑タイプの武将に惹かれますね。

 

「剛勇無双」や「武名天下に轟く」などという評される武将は、もうそれだけで文句なしにカッコいいなぁと思ってしまいます。

 

ただこの手の武将たちのエピソードは史実に基づいたものではなく、伝説伝承のたぐいも多く中には「いくらなんでもそんなことは・・・」というとんでもエピソードもたくさんありますね。

 

しかしここは伝説となって語り継がれるほど凄い男たちだったと都合よく解釈しましょう。

 

そもそも豪傑とは?

 

辞書によると豪傑とは。

武勇に並外れて優れていて度胸のある人物。小事にこだわらず思い切ったことをする人物

 

要するに戦において敵に臆することなく、果敢に闘い何よりも強かったということですね。その典型が鎮西八郎為朝!

 

この人ほど凄いと言うか呆れてしまうと言うか、思わず笑ってしまう現実離れしたエピソードの持ち主はいないでしょうね。もう投げっぱなしジャーマン級のエピソードばかり!

 

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源氏の頭領である源為義の八男で義朝の弟、頼朝と義経にとって叔父にあたる人物。鎌倉幕府の公式記録である吾妻鑑にも「無双の弓矢の達者」と書かれています。当時から音に聞こえた猛将だったのは事実のようですね。

 

為朝驚愕のエピソード集その1 わずか4歳で牛車をひっくり返す!

 

ちなみに牛車とはこれ。牛や水牛に牽引させる車で当時は貴族の一般的な乗り物でした。

 

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「4歳の子供がこんな重い車をひっくり返せるわけないやろ!」と怒ってはいけません。為朝のエピソードは広い心を持って読まなければなりません。なにせ為朝なのですから。

 

その2 16歳で九州を制圧!

 

子供の頃から気性が荒く都でも毎日のように喧嘩三昧、至るところで乱暴狼藉をはたらく為朝を父の為義も持て余し「このままでは何をやらかすか分からん、そうなったら俺の立場もヤバくなるかも」と考え13歳の為朝を勘当し九州に追放します。

 

しかしそんなことで落ち込む為朝ではありません。勝手に「鎮西総追捕使」を名乗り九州各地で暴れまわります。

 

「追捕使」とは今で言う警察官のことですが、九州の豪族にとっては笑えないジョークだったでしょうね。

 

自ら追捕使を名乗りながら各地でイチャモンをつけ、合戦や城攻めを繰り返し16歳にして九州を制圧!警察官どころか超ワルのヤンキーですねこれじゃ。

 

その頃になるとその乱暴狼藉の事実が都にまで届き、出頭命令を出されますが為朝はその命令をガン無視!怒った朝廷は父の為義を解官、つまり役職を解任されるに至ってやっと上洛します。

 

「自分のせいで親に迷惑かけて・・・ったくもう」と文句を言わないでおきましょう。なにせ為朝なのですから。

 

その3 愛用の強弓は5人張り!

 

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為朝と言えば「5人張り」の強弓が有名ですね。5人張りとは文字通り5人がかりで張る弓で、4人が弓を曲げ残りの1人が弦を張るというとんでもない強弓で、猛者揃いの当時でもこの弓を引ける者はいなかったとか。

 

現在アーチェリーで使用されている弓は1人で張ることができ引き重量は約25kg、単純計算しても5人張りの強弓とは100kg以上の引き重量があったわけで、これを使っていた為朝の怪力は恐るべきものがありますね。

 

ただ和弓の専門家よると5人張りの弓など存在したとは思えないそうで、まず当時はそんな強力な弓を作る材料がない。もし作れたとしても弓は丸太ん棒のように太く弦はロープのように、当然ように矢も同様に太くなりますね。

 

「それってもうほとんどミサイルやん!」とツッコミたいところですが、そこは目をつむりましょう。なにせ為朝なのですから。

 

その4 アンドレ・ザ・ジャイアント並の体格!

 

保元の乱は皇室と摂関家の内紛で、後白河天皇派と崇徳上皇派に分裂した政変ですね。これに為朝は父の為義と共に上皇方として参戦。一方兄の義朝は天皇方に付き親子兄弟が闘うことになります。

 

為朝は西河原門の守りにつきましたが、その体格がなんともはや凄すぎます。身長2m10cm!左腕が右腕よりも13cm長く、3尺5寸の太刀を提げはき5人張りの強弓を持っていたと「保元物語」に記されています。

 

平均的な太刀の長さが2尺2寸~5寸ですから、それらよりも30cm以上長い大太刀ですね。そんな太刀と強弓を持って歩く大男の姿はさぞや大迫力だったでしょうね。

 

古舘伊知郎が実況していたらきっと「お~っと!為朝の登場だ!まさにひとり民族大移動!凄まじい迫力であります」とでも言ったことでしょう。

 

しかもこのとき為朝17歳!当時は数え年なので満年齢で言えば15歳ですよ15歳!!!今なら中学3年生・・・。

 

そんな中学生想像したくないと思ってはいけません。なにせ為朝なのですから。

 

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その5 保元の乱で清盛がビビって逃げる!

 

保元の乱の作戦会議で為朝は「敵の本営である高松殿に夜襲をかけましょう。清盛なんて野郎は敵にはなりませんぜ。兄が出て来たら俺が射落としますから」と献策します。

 

この自信と余裕は凄味を感じますね。しかし藤原頼長は「夜襲は武家同士の戦ですることでおます。まろは公家やさかいそんな乱暴なことはしまへん」と為朝の意見を退けます。

 

戦そのものが乱暴なのにそんな悠長なことを言ってるようでは到底勝利は出来ませんね。為朝は「そっすか。でもうちの兄貴は絶対に夜襲をかけて来ますよ」と悔し紛れに捨てゼリフを残しその場を去ったそうです。

 

そしてその夜案の定天皇方が夜襲をかけて来ます。頼長はバツが悪かったのか為朝の機嫌を取るために、急遽官位を授けようとしますが「鎮西八郎為朝のままでいいっすよ」拗ねまくってこれを拒否。

 

拗ねてはいますが戦になれば別で、為朝の守る西門にまず攻めて来たのは平清盛の率いる軍勢600騎。郎党2人が為朝に挑みかかって来ますが「お前らじゃ相手にならん!清盛呼んでこい清盛を!」と叫びます。

 

それでも相手が矢を射掛けて来ると少しも怯まず「よ~しやったろうじゃねえか。この世の面目にくらいやがれ」と穂先が22cmもある矢を射ると、1人の体を貫きもう1人の鎧の袖に突き刺さります。

 

郎党がその矢を持ち清盛に報告すると、その太い矢を見ただけで清盛はガクブル!「ここを攻めるのはやめた。はい撤収」と北門へ向かいます。長男の重盛がそれを悔しがり「俺が行きます」と為朝に挑もうとしますが清盛は慌てて「いいから撤収撤収!」と止めさせました。

 

その後ついに兄義朝率いる坂東武者と為朝率いる鎮西武者がぶつかります。お互い一歩も引かない火の出るような戦いを繰り広げますが多勢に無勢、やがて上皇と頼長が落ちたことを知り為義、為朝らの武士も戦線を離脱します。

 

そして近江国に身を隠した為朝でしたが、病気になり湯治しているところを密告され捕らえられてしまいます。

 

京へ護送されたときは天下に名を馳せた猛将をひと目見ようと、たくさんの群衆が集まったそうで、その中には驚くべきことに天皇までが見物に行幸したそうです。なにせ為朝なのですから。

 

その6 鬼ヶ島に渡り鬼を家来にする!

 

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保元の乱には敗れた為朝でしたが、その武勇を惜しまれ助命されます。ただし二度と強弓を射ることが出来ないように、肘の筋を切られ伊豆大島に遠島の刑に。

 

しかしここでも為朝は獣なみの驚異の回復力を発揮、傷が癒えるとまたまた暴れ回ります。ほんとに根っからの暴れ者だったんですね。

 

その頃鬼の子孫と言われ大男ばかりが住む島があり為朝はその島に渡ります。「保元物語」によると身長3mもある毛むくじゃらの大男たちが、太刀を右腰に差して現れました。

 

普通なら震え上がるところですがそこは天下の猛将為朝、まったく怯まず強弓をちらつかせると鬼はあっさりとギブアップ!そこで為朝は鬼に尋ねます。

 

「この島の名前はなんと言う?」

「鬼ヶ島ですが」

「鬼なら奪った宝物がたくさんあるだろう。ここに出せ」

「昔はありましたが今はまったくありません」

「チェッ、なんだそうか・・・」と周りを見渡すと太い葦がたくさん生えた島の名前を蘆島と改め、大男をひとり家来として連れ帰りました。

 

身の丈3mの鬼をまたたく間に従えてしまうド迫力を持った男っていったい・・・まぁいいか。なにせ為朝なのですから。

 

その7 300人が乗った軍船を強弓で沈没させる!

 

流刑になって10年で為朝は伊豆七島を完全に支配、伊豆を所領としていた工藤茂光を差し置いてトップとして君臨します。

 

為朝の傍若無人な振る舞いに堪忍袋の緒が切れた茂光は、上洛して朝廷に訴えついに為朝討伐の院宣が下されます。

 

そして伊東、北条、宇佐美らの軍勢で、500騎が20艘の軍船で攻めて来ます。もはやこれまでと悟った為朝はせめて一矢を報いようと、軍船に向かって得意の強弓を射掛けると船はたちまち沈没!

 

館に帰った為朝は息子を刺し殺し、自らも切腹して果てました。享年32。追討軍は為朝の剛勇を恐れなかなか上陸出来ず、自害したと確認して初めて上陸。加藤忠廉が首級をあげました。

 

伊豆大島では今でも為朝は人気があり碑も建てられ、島の女性と結婚して移住してくる男性を「ためともさん」と呼ぶ風習があるそうです。

 

天下に名の響いた為朝もついに・・・と思いきやまだ続きがあります。なにせ為朝なのですから。

 

おまけ 為朝生存伝説!

 

実は為朝は伊豆から落ちのび琉球へ渡ったという伝説があります。琉球王国の正史である「中山世鑑」では為朝は琉球へ逃れ、息子が初代琉球王舜天になったとされているのは有名な話しですね。

 

真偽は不明ですが正史ですからねぇ。事実大正11年には為朝上陸の碑が建てられ、それに尽力した東郷平八郎の名も刻まれています。

 

どのエピソードも講談に出てくるような話しで、為朝らしいと言えばらしいですね。真面目に考えるとバカらしくなるところもありますがそこは仕方ないです。

 

なにせ為朝なのですから。

 

 

 

 

 

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