天下分けめの関ヶ原は徳川家康VS石田三成ではなかった!?

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司馬遼太郎原作の「関ヶ原」が岡田准一主演で映画化され公開されましたね。歴史好きとして見逃せない作品です。1981年加藤剛森繁久弥主演で放映された8時間ドラマは当時のオールスターキャストでかなり見応えがありました。

 

ただ今回は映画なので秀吉死去から天下分けめの決戦まで、この間の政治的ドラマを果たして映画という時間枠でどう描いているのか、これは興味のあるところですね。

 

       

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ところで現在では関ヶ原の戦いは「徳川対石田」という図式が通説になっていますが、果たしてこの解釈は事実に基づいたものでしょうか?

 

関ヶ原前夜の状況をざっとおさらい

 

司馬遼太郎の原作では秀吉死後家康の専横の数々、とりわけ目の上のタンコブだった同じ五大老前田利家が死去するにいたって野望むき出しで、五大老筆頭でありながらもうルール破りまくり!

 

この頃豊臣政権下では官僚派と武断派の対立が激化、加藤清正はじめ武断派による三成襲撃計画が発覚します。

 

          

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これを家康が見逃すはずはないですよね。襲撃を諦めない武断派に対し「これだけ止めてもやめないなら、俺が相手になるけど腹くくってんのかい?おお?」

 

 さすがにこれには武断派も諦めざる負えないことになりますが、家康は三成に謹慎処分を下し三成は失脚。しかしそれは三成に恩を売るように見せかけて挙兵をさせるためだったと原作では描かれています。

 

有力大名追い落とし計画

 

家康の野望はとどまることを知らず利家亡きあとの前田家に、家康暗殺計画の黒幕だろうと難癖をつけ追い落としをはかろうとします。これに前田家はガクブル!

 

利家の後を継ぎ加賀前田家当主となった利長は、ありとあらゆる方法で恭順の意思を示し、最後は母である利家未亡人まつを人質に差し出します。

 

これには家康も「しゃ〜ね〜な・・・ったく」と一応は納得。

 

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そして家康は次のターゲットに狙いを定めます。それが五大老のひとり会津上杉景勝

 

武門の家 上杉の宣戦布告

 

秀吉と利家の死後野望を隠さない家康は、豊臣家の盟主気取りで大阪城に陣取り正月には諸大名に年賀の挨拶に来ることを要求。

 

ところがただひとりそれに従わなかったのが五大老のひとり会津上杉景勝。そればかりか年賀の要求を伝えに来た家臣を、徳川内通の疑いありと処罰しようとしますが、家臣はそれを察知し徳川へ上杉謀反の疑いありと通報します。

 

          

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家康は景勝の大阪への出頭並びに釈明を求める問罪使を派遣。そしてそれに対する上杉家の返答として家老直江兼続は激烈な挑戦状を家康に送ります。

 

これが世に言う「直江状」!

 

家康を愚弄しまくりの直江状

 

手紙の中で直江兼続は無断で軍備の増強を咎められたことに対して「そっちは上方で茶器でもせっせと集めているんでしょうが、こっちは田舎者だから軍備を整えるのが武士の仕事だと思いますが・・・ナニカ?」

 

「また前田家をキャンと言わせたと聞きましたが、まったく大したご威光で恐れ入りますよ。いや〜凄い」

 

もう天下の内大臣家康をおちょくりまくりの馬鹿にしまくり!そして手紙の最後に決定的な挑戦文を書き添えます。

 

「追って急ぎ候間 一編に申述候 内府様又は中納言様御下向の由に候間 万端御下向次第仕るべく候」

 

 

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意味をわかりやすく説明すると。

「最後に言っておく!聞くところによると、家康か秀忠が会津討伐に来るそうだが?上等だぁコラァ!かかってこいや!」

 

カッコいいですね。しかしこの手紙を読んだ家康はさぞや怒り心頭だったことでしょう。

 

会津征伐

 

かくして会津征伐の陣ぶれが出され家康は大名を動員。この段階で上杉と三成は気脈を通じ家康が会津に向かっている間に三成が挙兵。

 

東国で上杉軍と三成軍とで家康を挟み撃ちにする計画だったと言われています。

 

しかしそこはタヌキ親父の家康、その計画を早くから察知していたようで、三成挙兵の知らせが届くと小山評定と言われる軍議で会津征伐の中止を決定。

 

反転して三成の征伐に向かい。遂に三成率いる西軍と家康率いる東軍約20万が関ヶ原で激突します!

 

これが原作における大まかな関ヶ原までの流れですが、最近ではこれまでとは違う考察が見られるようになりました。それが関ヶ原は徳川対石田ではないと言う見方ですね。

 

そもそも三成は西軍の大将ではない

 

これは知られていることですが、西軍の総大将は中納言毛利輝元五大老のひとりであり当時の地位や家格と120万石の石高から言ってもこれは当然ですね。

 

 

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三成は五大老の下の五奉行のひとり、今で言えば五大老が閣僚なら事務次官と言うべき立場でしょうか。

 

領地は近江佐和山19万石でしかなくしかもこのとき失脚中、元の役職から言っても家格から言っても西軍の総大将にはなれませんね。

 

西軍決起の首謀者は三成ではなく宇喜多秀家だった!

 

原作では三成が挙兵の決意を大谷刑部に伝え、三成への恩義から刑部は西軍への参加を決意。

 

ただし三成は表に出ることなく毛利輝元を総大将に据えるよう忠告します。それを承知した三成は安国寺恵瓊と共に輝元を西軍総大将に担ぎ出します。

 

と言うのがよく知られた話ですね。ところがこの謀議よりも前に宇喜多秀家が豊国社で家康打倒の出陣式を行っているんですね。

 

 

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しかもこの出陣式には秀吉未亡人の高台院の代理として、側近であり大谷刑部の実母東殿局が出席しています。

 

高台院が戦勝祈願に代理を出席させたと言うことは、これまで言われている高台院が東軍支持だったと言う説も覆されますね。

 

豊臣一門だった宇喜多秀家

 

幼い頃から秀吉に可愛がられ元服時には「秀」の一字を譲り受け、そればかりか秀吉の猶子として迎え入れられ、秀吉の養女で前田利家の娘豪姫を正室にするなど、豊臣家では破格の扱いを受けていた秀家。

 

 

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また九州征伐の功により「豊臣」の姓を賜り、文禄の役では大将に任命され一説によると自分の後の関白に秀家を考えていたと言われています。これは周りがやっかむ程の寵愛ぶりだったでしょうね。

 

長じては備前57万4千石の大大名で20代の若さで五大老のひとりに抜擢!官位は従三位中納言!正に豊臣家ではエリート中のエリートです。

 

関ヶ原においての秀家

 

決戦当日秀家は一万七千もの大軍を率いてやる気満々、当日の東西布陣図を見ても宇喜多陣屋や西軍の中央に位置しています。

 

しかし他の西軍の中でやる気があるのは、石田三成小西行長、大谷刑部くらいのもので他の諸隊は完全に日和見態勢。

 

 

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これでは勝てるはずがないですよね。小早川秀秋の裏切りによって戦は半日で東軍の勝利!同じ豊臣一門である秀秋の裏切りは秀家にとってさぞや痛恨の極みだったでしょうね。

 

原作では裏切りを知った秀家は「金吾(秀秋)のヤロ〜!これから松尾山に行って金吾と刺し違えたるわい!」

 

怒り狂って今にも駈け出さんとしている秀家を、家臣が無理矢理に落ちのびさせたことになっています。心中察して余りありますねぇ。

 

 

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ところで西軍の総大将は毛利輝元、軍事面での大将は宇喜多秀家。原作でもそのように描かれていますが当時の人々の印象はどのようなものだったんでしょうか?

 

当時の貴族の手紙や日記によると「徳川内府が勝利備前中納言が敗北」と書かれ、三成の名前はで出来ません。

 

当時の人々の感覚で言うとやはり関ヶ原は「徳川家康石田三成」ではなく「徳川家康宇喜多秀家」だったようですね。

 

関ヶ原後の秀家とまとめ

 

敗戦後西軍各隊の諸将はそれぞれ戦場から落ちて行くのですが、三成はじめ小西行長安国寺恵瓊などすぐに捕まって処刑されました。

 

ところが秀家は追手をかいくぐり薩摩まで逃走、島津家に匿われていましたが身柄を江戸に送られ八丈島へ遠島。八丈島に罪人が配流されるのはこれが初めてだったそうです。

 

なぜ死罪にならなかったのか

 

西軍の大将でありながら秀家だけがなぜ死罪にならなかったのでしょうか?まず考えられるのは正室豪姫の実家である加賀前田家の助命嘆願ですね。

 

確かに大大名である前田家からの嘆願は、決して意味のないものではなかったでしょうが、個人的には島津家の存在が大きいように思います。

 

恐るべき島津の外交力

 

関ヶ原での島津勢は戦闘中はまったく動かず、東軍勝利が決定してから敵中突破という前代未聞の退却を開始します。

 

勇猛果敢で音に響いた島津兵は主将島津義弘を守ろうと奮戦、無事薩摩に帰り着いたとき千人の兵が八十人になっていたほど壮絶なものでした。

 

 

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さてここから島津の超強気謝罪外交が始まります。まず国境をしっかりと固め国をあげて臨戦態勢を整えた上で重臣を家康の下に遣わします。

 

そこで島津家の使者はこう述べます「西軍に参加したことについては謝る!ごめん!だから領土を削るのは勘弁ね。もし領土を1ミリでも削ったら島津の勇猛さをもう一度お見せする覚悟があるがどうします?」

 

こんな強気な謝罪は過去も現在もおそらくないでしょうね。そしてこの謝罪工作の条件のひとつが秀家の助命だったと考えられます。

 

その結果謝罪と恫喝を繰り返し粘り続けて2年半、ついに島津は家康から本領安堵のお墨付きをもらうことに成功します。

 

家康の思惑は?

 

島津の強気な謝罪をなぜ家康は受け入れたのか?やはり関ヶ原勝利したとは言えまだ大阪には豊臣秀頼がいて政権が完全に徳川に移譲されたわけではありません。

 

そんなとき再動員を掛けての薩摩征伐をすれば、精強な薩摩との戦は長期戦になること必至ですね。

 

 

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そこでもし各地で反家康の旗が上がったら・・・。そう考えた可能性は高いと言ってもいいと思います。

 

背景に軍事をちらつかせ家康の弱みを巧みについた島津の外交、秀家はもちろん土佐の長宗我部はじめ多くの大名が改易になり、毛利、上杉は何とか改易は免れても領地は4分の1に削られています。

 

そんな中薩摩という地の利と的確な状況分析で本領安堵を勝ち取った島津の外交力!もう見事と言うしかありませんね。

 

その後の秀家

 

助命された秀家は八丈島で前田家の援助を受けながら暮らし続け、関ヶ原から16年後その罪を解かれます。

 

そして当時の前田家当主利常から10万石を分け与えるから大名に復帰したらという誘いを受けますがこれを辞退しています。無私の人だったんですね。

 

その後も当地に居続け84歳で没。ときに江戸幕府は4代将軍家綱の時代でした。

 

 

 

 

 

 

 

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