自分流儀のダンディズム♪

メンズファッション・映画・音楽など好きなことを好きなように綴っています

天下の副将軍はこの人だった!知られざる奇跡の名君保科正之

スポンサーリンク

f:id:rintaro95:20171119130452j:plain

 

 

天下の副将軍と言えば真っ先に葵の印籠でお馴染みの水戸黄門を思い浮かべますね。しかしあれは完全にフィクションの世界で、水戸藩主は江戸に常駐することが義務付けられていただけで「副将軍」という役職も光圀がそうであった事実もありません。

 

ところが実際に実質的副将軍としての役割りを唯一果たし幕政を取り仕切り、江戸幕府の礎を築いた人物がいました。それが今回の主人公会津藩主保科正之その人です!

 

        f:id:rintaro95:20171122214545j:image

 

どこの国でもありうることですが歴史を俯瞰して見ていると天がこの人物を選んで、地上に送り出したとしか思えないような奇跡的人物に出会うことがありますね。

 

一般的知名度はそんなに高くはありませんが保科正之こそ、日本史上天が送り出した奇跡的人物のひとりであることは間違いないと私は思います。

 

その保科正之とはいったいどのような人物だったのでしょうか?

 

運命的な出生の秘密 !

 

慶長16年神田白銀町で生まれた正之幼名は幸松、母は身分の低い浪人の娘でしたが父親はなんと!徳川家二代将軍秀忠!

 

つまり正之は将軍のご落胤で家康の孫であり三代将軍家光、駿河大納言忠長の異母弟だったんですね。

 

本来なら江戸城内で将軍の息子として育てられるべき立場ですが、正之の出生は秀忠側近の数名しか知らされず存在を隠したまま育てられました。

 

何故そこまで秘密にしていたのか?その原因は秀忠の正室お江にありました!

 

超恐妻家の秀忠は嫉妬深く独占欲の強い彼女の性格を恐れ、正之を認知するどころか生涯対面も果たしていません。

 

大河ドラマの主人公にもなっているお江ですが、ドラマのイメージとはかなりかけ離れた人物だったようですね。

 

         f:id:rintaro95:20171122215303j:image

 

幼い正之は武田信玄の次女見性院に預けられますがその存在が何故かお江に知られることになります。お江は当然ながら正之の引き渡しを要求します。

 

ここで引き渡せば正之の命に危険があると考えた見性院は、お江の要求を毅然と拒否し正之を守り抜きました。さすが信玄の娘だけあって性根が座ってますね。

 

それにしてもお江という人は彼女自身数奇な運命を歩んで来たことを差し引いても、正之を亡き者にしようとしたり家光を廃嫡し忠長を将軍にしようと画策したりと人間的に問題があった人だったようですね。

 

信州高遠家へ

 

7歳になった正之は見性院によって旧武田家の家臣で高遠藩の藩主保科正光の元に養子に出されます。

 

正光は正之を後継者に指名し藩内をくまなく回らせ領民のための政治を学ばせます。あるとき馬で領内を訪れ農民の家の庭に馬を入れようとした正之を見た正光は「馬を農家の庭に入れてはいかん。馬が穀物を食べると農民が悲しみ配慮のない殿様だと思われる」と諭したそうです。

 

この高遠藩での正光の教えが後の正之の人格形成に大きく影響したと言われています。そして寛永8年正光のあとを継ぎ高遠藩3万石の藩主となり正四位下左近衛中将兼肥後守に叙任。

 

藩主となったことによって江戸城に登城し兄である家光と対面したときも小藩の藩主だからと末席に控えていたそうです。

 

出羽山形から会津藩主となる

 

家光が正之の存在を知ったのは、お忍びで出かけた目黒の成就院の僧侶から聞かされたとされ、事実成就院は家光から寺領を寄進されています。

 

また家光の弟の忠長とも正之はのちに対面し忠長は正之の人柄を気に入り、家康の遺品を自ら与えています。

 

そして秀忠の死後3代将軍となった家光も正之の性格と有能さを全面的に信頼していたようで、寛永13年には出羽山形20万石そして寛永20年には会津23万石を拝領します。

 

        f:id:rintaro95:20171122214625j:image

 

ここでようやく幕末の松平容保に至るまで称される会津中将の誕生ですね。

 

画期的な経済・福祉政策で会津を日本一安心な国に!

 

慶安4年将軍家光は亡くなる直前に弟正之を呼び「宗家を頼みおく」と言い残しあとを正之に託します。

 

そして実直な正之がその信頼に応えようと定めたのがかの有名な「会津家訓十五箇条」。幕末に松平容保が佐幕派として最後まで薩長と戦ったのはこの家訓によるもので正之の薫陶は幕末まで受け継がれたいたんですね。

 

       f:id:rintaro95:20171122214933j:image

 

会津藩主となった正之は奇跡としか言いようのないスーパー名君ぶりを発揮し数々の善政を敷きました。世界的にも画期的だったその政策の数々とは? 

 

大胆な経済政策で藩の財政を再建する

 

藩主になった正之がまず最初に行ったことは検地によって藩の正確な石高を割り出すことでした。

 

そしてその結果前の藩主が実際よりも2万石分余計に年貢を徴収していたことが発覚、正之は直ちに正確な石高による年貢を制定し直します。つまり減税政策を取ったわけですね。

 

ところが驚くべきことにこの減税によって感激した農民たちは、隠し持っていた水田を自主的に申告。その石高は2万3千石に及び3千石プラスになるという結果を生みました。

 

飢饉に備え「社倉制度」を導入

 

減税で農民の負担を軽くしその上税収を増やした正之は、社倉と言われる制度を導入します。社倉とは藩が米を備蓄することで飢饉や凶作のとき藩が領民に米を貸し出す制度のことで借りた米は豊作のときに返済すればよいとされました。

 

7000俵からスタートした社倉は拡充し続け10年後には2万3000俵、幕末には10万俵までとなり度重なる東北飢饉のときも会津はひとりの餓死者も出していません。危機管理にも優れていたんですね。

 

飢饉は天災だから仕方がないただ飢饉で餓死者が出るのは誰の責任か?それは政治の責任であると正之は考えていたようです。何という行政能力の高さ!

 

これぞ正に「領民ファースト」

 

誰かさんにも見習ってもらいたいですね。

 

        f:id:rintaro95:20171122220008j:image

 

医療費免除制度で福祉の充実を

 

正之が導入した世界初と言える制度のひとつが医療費の免除ですね。これは領民だけではなく旅人にも適用され、このために商人などが安心して会津を訪れるようになり経済がますます発展して行きました。

 

会津がいかに安心して住める国であったかよく分かりますね。

 

お年寄りに生涯年金を支給

 

世界初の制度は医療費だけではなく、会津では90歳以上の老人に養老扶持を与えたのも正之の善政のひとつですね。

 

歳をとって働けない老人は家庭のお荷物だとされていた時代、会津では長生きは良いことだと掛け金なしの生涯年金が支給されました。

 

ドイツの宰相ビスマルクが年金保険制度を制定する200年前に正之はこの制度を導入していたんですね。

 

福祉という概念がない時代にこれだけ領民のために福祉を充実させ、年金というシステムを創り出し福祉目的財源をしっかりと確保した正之の行政手腕にはもう脱帽するしかないですね。

 

幕末の悲劇だけが会津のイメージではありません

 

いかがですか?会津藩といえば幕末の戊辰戦争での若松城落城や白虎隊の悲劇のイメージが強いですね。

 

ところが江戸初期から幕末に至るまで会津は豊かで将来の心配のない領民が安心して暮らせる国、それが会津という国でそれは正之という優れた藩主の功績でした。

 

今でいう福島県知事としての正之の実績は素晴らしいものがありますが、正之の凄さはそれだけではありません。

 

4代将軍家綱の後見役つまり副将軍、現在の内閣総理大臣としても恐るべき有能さを発揮します。

 

明暦の大火で強力なリーダーシップを発揮する!

 

明暦3年に江戸の大部分を焼き尽くし10万人の死者を出した明暦の大火。ロンドン、ローマと共に世界3大火と言われるほどの大災害が江戸を襲いました。

 

江戸が焼失してしまうような大火で議論が錯綜する幕閣の中で、強力なリーダーシップを発揮したのが正之でした。

 

        f:id:rintaro95:20171122214720j:image

 

将軍家綱を江戸城脱出を禁じる

 

1月18日に出火した炎が江戸城にも迫って来る中、幕閣は将軍家綱の避難先を検討します。火事の風上にあった上野寛永寺や幕閣の屋敷に将軍を迎えようとします。

 

そこに進み出た正之は「本丸に火が回ったら西の丸に移ればよい。さらに西の丸が焼け落ちたら本丸の焼け跡に陣を立てろ。城外に将軍を動かすなどもってのほかだ!」と一喝します。

 

リーダーが軽々しく動けば人心が動揺すると考えたんですね。将軍を江戸城にとどめおき災害対策本部を明確にし自ら陣頭指揮を取り災害沈静に当たりました。

 

これもまた震災発災時に無用の原発視察をして、現地を混乱させたどこかの元首相に聞かせてやりたいですね。

 

幕府財政の金庫を救った正之の考えられない奇策とは?

 

大火の火の手は幕府の金庫とも言える浅草の米蔵に迫ります。江戸中の火消しがすべて出払っていて米蔵が炎に包まれれることを幕閣が覚悟したとき、正之はアッと驚くような奇策を打ち出しました。

 

それはなんと!米蔵の米取り放題のお触れ!

 

今で言えば日銀に保管されている国庫金つかみ取りを許可するようなものですね。しかしこのお触れのおかげで被災者たちはお米欲しさに協力し合い、消火活動をしながら米蔵へまっしぐらに向かいます。

 

そして被災者の必死の行動によって米蔵は焼失をまぬがれ、備蓄米が緊急救助米となり一石二鳥の成果をもたらしました。

 

正之は米蔵の焼失を防ぎたい、しかし駆けつけた被災者は飢えをしのぐための米が必要ですね。目的は違っても結果的に双方に利する方法を思いつく正之の政治家としての凄すぎる一面がここにも見られますね。

 

素早く的確な復興政策を実施

 

10万人の犠牲者を出し焦土となった江戸の街を見て、正之は即座に復興事業に着手します。まずは火が燃え移ることを道路を広くして防ぐため道路の拡張を計画します。上野広小路はこのときに作られました。

 

また江戸防衛の観点から敵の侵入を防ぐため隅田川に橋を架けることは幕府が制限していましたが、明暦の大火では多くの人が隅田川に飛び込み溺死したことが判明すると正之は両国橋を建設。

 

江戸市民の安全を優先した「民のための政治」を貫いた正之の判断は現在も快挙として賞賛されています。その結果江戸の隅田川を超えての発展に大いに寄与することになりました。

 

江戸城にはなぜ天守閣がないのか?

 

幕閣にとって最大の議論になったのは焼失した天守閣の再建問題。重臣たちは天守閣は武家の象徴だとして大火の翌年には天守閣再建の石垣の土台が完成。

 

しかしここでも正之は異を唱えます。「天守閣などただ遠くを見渡すための物見やぐらに過ぎない。今すべきことは江戸の街の復興である!」

 

それを聞いた老中たちが「それでは御金蔵が空になる」と反論すると正之は「御金蔵のお金とはこんなとき使うためにあるんだ!こういうときに使うのでなければ最初から貯めておかなければよかったんだ!」幕閣全員沈黙・・・。

 

この正之の進言により天守閣の再建は中止されました。このとき復興に使った額は16万両!大藩が一年に得る収入に匹敵するくらいの金額を復興のためにつぎ込むことで庶民の政権への信頼を得たのも正之の大きな功績ですね。

 

        f:id:rintaro95:20171122215627j:image

 

 

考察とまとめ

 

ここまで保科正之の業績の数々を紹介して来ましたが、武将として政治家としての能力もさることながら正之の人としての崇高な精神が偉業の根本だという気がします。

 

そのいい例が明暦の大火後被災者へのおかゆの炊き出し、正之は薄く米が少ないおかゆと米が多く濃いおかゆの2種類を用意させ病人やお年寄りには胃に負担の掛からない薄いおかゆを、それ以外の被災者には濃いおかゆを与えるよう指示したそうです。

 

ここまで民のことを考え思いやれるのは正之の人しての姿勢がそうさせているのは間違いないですね。

 

正之という人物を知れば知るほど日本史に現れた奇跡の人物であるという思いを強く持ってしまいます。

 

また正之は将軍の異母弟として松平姓を名乗るよう幕府から何度も進められますが、自分を引き取って養育してくれた保科家の恩義を忘れず生涯保科姓を通し、会津藩主が松平姓を名乗り正式に葵の御紋を使用する御親藩となったのは孫の正容の時代になってからでした。

 

寛文9年息子の正経に家督を譲り隠居した正之は、自らの日記や功績を記した書物などをすべて焼却させました。

 

そして寛文12年生涯を民のため徳川宗家のために尽くした正之は三田の藩邸で亡くなりました。享年63。

 

これほどの人物があまりよく知られていないのは、やはり正之が生涯黒子に徹し功績を誇ることがなかったことが大きな理由だと思われます。

 

歴史学者には正之がいなかったら徳川幕府は15代まで続かなかっただろうという意見も多く聞かれます。

 

日本を取り巻く情勢が刻々と変化する現代、正之こそ今必要なのは正之のようなリーダーなのかも知れないですね。

 

日本が世界に誇るべき人物です!

 

 

 

 

 

rintaro95.hateblo.jp

 

 

rintaro95.hateblo.jp

 

 

rintaro95.hateblo.jp