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樋口季一郎 2万人のユダヤ難民を救済し北海道を守った侍

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自社の工場で働いていた1200人のユダヤ人をナチスの迫害から救ったドイツ人シンドラー。そして「東洋のシンドラー」と言われ6000人分のビザを発行しドイツから脱出させた杉原千畝

 

映画にも描かれた彼らの功績をご存知の方は多いと思います。

 

しかし一般的には知名度は低いですが彼らに勝るとも劣らない功績を残し、今もなおユダヤ人から敬愛されている日本人。

 

それが元陸軍中将樋口季一郎です。

 

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兵庫県に生まれた樋口は陸軍幼年学校から21期陸軍士官学校、そして30期陸軍大学校卒業という軍人としてのエリート街道を歩みます。

 

主に満州やロシアなど駐在武官として各地を歴任、しかし彼がその国際感覚を身につけたのはポーランドワルシャワに武官として就任したことがきっかけだと言われています。

 

ソ連に対する情報収集という点において隣国のポーランドは重要な国とされていました。その国に派遣された樋口は軍人としてやはり優秀な人物であったようですね。

 

ワルシャワで各国の軍人や要人と接することによって、軍人特有の居丈高は態度は恥ずべき行為だと感じ権威主義的な態度を取らない稀有な軍人だと言われるようになったと言います。

 

日中戦争が勃発するとハルピン特務機関長というポストに就任。

 

当時満州国関東軍が圧倒的権力を持って幅をきかせ、多くの日本人が一攫千金を夢見て満州国に渡り、利権をあさるという到底独立国とは言えない状態でした。

 

これを憂慮した樋口は部下である将校に「国民の不満をよく聞き悪徳日本人は厳しく取り締まれ」と命じたそうです。

 

そんな樋口の元を訪ねて来たひとりの人物、それがハルピンユダヤ人協会会長で内科医のカウフマン博士。

 

博士はナチスドイツのユダヤ人迫害が激化してきたので、それを世界に訴えたいとハルピンで極東ユダヤ人大会の開催許可を樋口に求めてやって来たのでした。

 

そして博士の願いを快諾した樋口の尽力で翌年ハルピンで2000人のユダヤ人が集まる第一回ユダヤ人大会が開催されました。

 

その会場で来賓として壇上に立った樋口の「ユダヤ人を追放する前に彼らに土地を与えよ!安住の地を与えよ!」という演説に人々は万雷の喝采をし、ひとりの青年は壇上に駆け上がり樋口の前にひざまづき号泣したそうです。

 

しかし当時日本とドイツは同盟関係にあり、この演説によって「日独関係を悪化させる」と関東軍司令部から批判の声が上がり「樋口を罷免せよ」という声も多く聞かれるようになりました。

 

そしてそのさなかに起こったのがオトポール事件でした。

 

オトポール事件

 

ソ連と、満州の国境沿いにあるシベリア鉄道の駅「オトポール」ここにナチスからの迫害を逃れたユダヤ人たちが避難して来ました。

 

彼らの目的は上海経由でアメリカへ渡ること、しかしそのためには満州国へ入国し上海租界に行く必要がありましたが満州国外交部は入国の許可を出さず駅に足止めされていました。

 

凍てつくような寒さの中、食料も尽き凍死者も出るような惨状を見かねた樋口は食料や衣服燃料などを配給し病人の治療そして入国斡旋を実行。

 

満州鉄道の松岡総裁に難民救済のために列車を出すよう要請。これによって約2万人のユダヤ人が救われたと言われています。

 

この行為に対してドイツは当然関東軍に抗議します。しかしその抗議に対して「これは人道上当然の配慮である」と一蹴したのが当時関東軍参謀長で後の首相東条英機でした。

 

東京裁判A級戦犯で日本を戦争に引きずり込んだ極悪人のように多くの人が思っているようですが、ジャーナリストのヘンリー・スコット・ストークスは多くのユダヤ人の命を救った「東条の功績は非常に大きい」と評価しています。

 

これは杉原千畝の「命のビザ」の2年以上前に起こった出来事です。

 

 

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 ユダヤ人救出に樋口を駆り立てたのはどのような感情だったのでしょうか?

 

それはグルジアに赴任し、ある貧しい集落を歩いていたときひとりの老婆が彼に近づき樋口が日本人だと確認すると家に招き入れ樋口にこう語り掛けたそうです。

 

「わたしはユダヤ人です。世界で一番不幸な民族でどこに行ってもいじめられて来た。日本は東にある太陽が昇る国。だからきっとユダヤ人を助けてくれるに違いない」そう言って涙を流しながら彼の前で祈りを捧げたそうで、樋口は生涯このときのことを忘れなかったと言います。

 

対ソ戦へ

 

終戦から2日後ソ連軍はポツダム宣言受諾し停戦中に突如として、占守島へ侵攻し多くの日本人が虐殺されました。

 

当時第五方面司令官だった樋口は、ソ連が連合国なら停戦後の侵攻はないはずだとの判断によって闘うことを決意、戦闘は日本軍優位にすすめられ樋口は島民400人と無事北海道へ逃しソ連軍に甚大な被害を与えました。

 

終戦そしてユダヤの恩返し

 

戦後ソ連は北海道侵攻を食い止めた司令官樋口を「戦犯」として強硬に指名して来ましたがこれは当然のことでしょうね。

 

しかし驚くべきことにマッカーサーソ連の要求を断固拒否、そればかりか「樋口を擁護せよ」と命じました。

 

マッカーサー国防総省の要請で樋口を擁護したのですが、その国防総省を動かしたのはニューヨークに本部がある「世界ユダヤ教会」でした。

 

協会の幹部にはオトポール事件で樋口に救われた人が何人もいて彼らが「あのときの恩返しするのは今しかない」と動いたのがマッカーサーの拒否に繋がったのでした。

 

ただこの事実を樋口本人が知ったのは戦後5年が経ちアインシュタイン来日のとき、ユダヤ祭りが開催され招待された樋口が幹事役のミハイル・コーガンから聞かされます。

 

そしてコーガンが樋口を紹介すると祭りに参加したユダヤ人たちは「ヒグチ、ヒグチ」と連呼、拍手と歓声が鳴りやまなない中樋口は「私は人間として当然のことをやっただけである」と呟いたそうです。

 

杉原千畝に比べ樋口季一郎知名度が低いのは、やはり彼が軍人であったことが一番の要因だと思います。外務省の命令に背きビザを発行した杉原、軍人としてドイツの抗議に職を賭してユダヤ人を救出した樋口。

 

戦後ふたりの知名度の差にはどこか恣意的なものを感じるのは私だけではないと思います。

 

1948年建国されたイスラエルには多大な功績があった人や、傑出したユダヤ人の名前を記した「ゴールデン・ブック」という本があります。

 

アインシュタインやモーゼなど多くの人の名前が記されていますが、その本の上から4番目に「偉大なる人道主義者 ゼネラル樋口」そして部下の安江仙弘の名前が記されています。

 

戦後様々な民間企業から招へい依頼があったそうですが、それらを一切断り隠遁生活を送り1970年10月11日その生涯を終えました。

 

杉原千畝と並び我々は樋口季一郎の名前も刻んでおくべきだと思います。

 

 

ユダヤ難民を救った男 樋口季一郎・伝

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北海道を守った占守島の戦い (祥伝社新書332)

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