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小村寿太郎 ポーツマス条約を調印に導いた悲運のタフ・ネゴシエーター!

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「私は日本の勝利を望んでいる。何故ならば日本は我々のゲームを闘っているからだ」

合衆国第26代大統領セオドア・ルーズベルト。

 

 

日露戦争が講和に至る過程

 

日本海海戦での歴史的大勝利や、旅順陥落など終始戦争を優勢にすすめていた日本でしたが、国力の面でこれ以上の戦争継続は無理だと政府は判断。

 

駐米公使高平小五郎を通じアメリカに対し「中立の友誼的斡旋」を申し入れます。当時の合衆国大統領ルーズベルトはこれを承諾。ここから日露の和平交渉が加速して行きました。そして日本全権を託されたのが時の外務大臣小村寿太郎。

 

実際日露戦争末期になると日本陸軍の戦力が到底長期戦に堪えられるものではなく、陸軍首脳や元老たちは戦争の継続が危険であると判断を下し、講和会議では絶対的必要条件以外は譲歩するつもりで、その他の条件については小村の外交的手腕することに決定。

 

しかしそんな陸軍の危機的状態など知るべき由もない世論は、勝利に沸き立ちロシアの領土の一部と、多額の賠償金をロシアから取れるだろうとの気運の高まりは抑えようもないほど盛り上がりを見せていました。

 

そんな中で小村はある覚悟を持って講和会議に臨むべく、ポーツマスに向けて旅立ちます。

 

小村寿太郎の人物像

 

小村は文部省第一回海外留学生に選ばれたほどの秀才で、ハーバード大学ロースクールを卒業後ニューヨークで前司法長官ビールボンドの事務所で法律の実務を学び26歳で帰国。

 

司法省刑事局出仕となりますが薩長を始めとする藩閥政治の中、日向の国(現在の宮崎県)の飫肥藩という小藩出身のためおもに米英の法律文書の翻訳という閑職に。

 

そのせいかどうか私生活では大酒を飲み、女性関係も賑やかで先輩や友人は「あの大学南高(現在の東京大学)の秀才小村も凡物に成り果てたか」眉をひそめていたそうです。

 

小村は身長が150cmに満たない当時としてもかなりの小柄でしたが、その体格とは裏腹に行動力は旺盛で、北京では首相の李鴻章始め、各国公使館を頻繁に訪ねたり、欧米人が集まる「北京倶楽部」で外国人と積極的に意見交換をするなど。

 

慌ただしく動き回る小村は外国人たちの目を引き「ラット・ミニスター(ネズミ公使)」というニックネームで呼ばれてました。

 

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しかし体は小さくても気性は大変激しく、駐清特命全権公使として北京に赴任中祝宴に招かれた小村は、体の大きな李鴻章から「清国の15,6歳の子供のようですね」と揶揄されると「日本では大男総身に知恵が回りかね、ウドの大木と言って大男は国家の大事を託しかねると言われております」と答え李鴻章の顔色を変えさせたり。

 

また海軍大臣西郷従道から「その体では外国人から子供のように見られましょう」と問われると「大丈夫です。私は日本を代表して行くのですから、日本は小さくても強いですからね」と答えたと言います。

 

持ち前の気性の激しさはコンプレックスを跳ね返そうという意識の表れだったのかも知れないですね。

 

ポーツマス出発前夜

 

最初に述べたように当時の世論は、陸海軍の連勝に沸き立ちロシア領土の割譲と賠償金を当然のように要求しています。

 

しかし政府が陸軍の現状を正直に国民に知らせ、理解を得ることは到底不可能なことでした。何故ならその場合ロシアは日本に余力がないことを知り、総力を挙げて反撃に出ると予想されるからです。

 

開戦前に大蔵省が立てた戦費の試算は4億5千万円。これは当時の国家予算の2倍にあたります。しかし開戦するとその予想をはるかに上回り結局掛かった戦費は18億円!現在の金額に換算するとなんと400兆円!!!

 

各地の戦闘には圧倒的に勝利しながらロシアの3分の1という国力の差は如何ともし難く、これ以上の財政的に継戦能力がなく、どうしても講和に持ち込む必要があったわけですね。

 

そんな中全権として講和会議に臨む小村は、例え首尾よく使命を果たしても譲歩したことによって、国民の憎しみを一身に浴びるという過酷な状況に追い込まれる。

 

う~んしかしよくこの役目を引き受けたなと思いますね。

 

ポーツマス出発前小村の送別会が開かれ、参席した元老や閣僚は小村に同情的で元老井上馨は「君は実に気の毒な境遇になった。今まで得た名誉も地位もすべて失うかも知れない」と涙ぐみ。

 

伊藤博文は「君が帰国したときは、他人はどうであろうと吾輩だけは必ず迎えに行く」と言ったそうです。

 

「そっちが要請しておいてよく言うぜ・・・ったく」と思っても無理はないはずですが、小村は自分が損な役回りを押し付けられたことについては言及していません。

 

わずかに横浜で沿道を埋め尽くした群衆が国旗を振り万歳の大歓声が響く中、小村はそばにいた首相桂太郎に「帰国するときには、人気はまったく逆でしょうね」と話しかけています。

 

そして横浜港で蒸気船に乗り込んだときも、波止場に群がり歓声をあげている人々に随行員の山座が「あの万歳が帰国のときに馬鹿野郎ですめばいいでしょう。おそらく銃で撃たれるか爆弾を投げつけられるに違いありません」と言うと。

 

「かれらの中には戦場にいる夫や兄弟、子供が今にも帰してもらえると喜んでいる者もいるはずだ」と答えています。やがて小村の乗船した日章旗をかかげた「ミネソタ号」はワシントンに向かって出航します。

 

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ポーツマス会議

 

講和会議において政府が小村に命じた絶対的必要条件は、朝鮮半島の支配と満州からのロシア軍の撤退、そして南満州の権益の確保。

 

それに対して賠償金の獲得や領土の割譲など、戦勝国なら当然要求すべきことは「比較的必要条件」にとどめられていました。政府としてはとにかく戦争を終結させることを最優先したんですね。

 

しかし国民は国の実情を知らない上に、当時の新聞が30億円の賠償金を請求すると盛んに期待を煽りました。不確定情報で世論を煽るのは当時も今も変わっていないですね。

 

小村は政府の目的とそれに相反する国民の期待、その両方を背負って会議に臨みました。

 

ロシアの代表は政府の要職を歴任した大物政治家セルゲイ・ヴィッテ。会議は当初比較的スムーズに進み7日目には、日本の絶対的必要条件である7項目は合意。これによって日本は目的であった安全保障は確保されました。

 

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しかし小村はそれに満足せず賠償金と領土の割譲にあくまでもこだわります。しかしヴィッテが本国にそれを打診すると皇帝ニコライ2世は「1寸の土地、1ルーブルの金も譲ってはならない」とヴィッテに命じます。

 

その上ヴィッテは新聞を使ってアメリカの世論を誘導します。それに乗った新聞が一面で「日本の強欲と強情が戦争を継続させようとしている」と盛んに書き立てるようになります。

 

メディア操作を上手にすることも政治家の手腕ですから、この点に関しては小村はヴィッテに遅れを取ったということになりますね。

 

政府や軍部はあくまでも講和を優先ですが、小村は変わらず賠償金獲得にこだわります。そして日本に向けて「談判を断絶する他、もはや取るべき道これなし」と打電します。

 

しかし政府の答えは「講和を成立せしむることに議決せり」と講和成立を命じます。もうこうなるとどちらが譲歩するか正にチキンゲームですね。

 

そして労働者のデモなど国情が不安になったロシアが遂に譲歩します。つまり賠償金とは見なされない額のロシア軍捕虜の経費を支払う。そしてサハリンの南半分を日本の領土とする。

 

政情不安もさることながら小村の粘りがロシアの譲歩を生んだんですね。そして1905年9月5日、小村とヴィッテによって講和条約が調印されました。

 

帰国そして日比谷焼き討ち事件

 

しかし日本ではこの講和の内容に批判殺到、新聞には「嗚呼、千古の大屈辱」の見出しが。国情を知らない国民はこれに激昂!講和反対の声が盛り上がって来ます。

 

そして9月5日には日比谷公園で国粋主義者や野党議員が、講和反対の決起集会を開こうとしますが、警察が禁止命令を出したことから民衆が暴徒化。

 

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東京各地の交番や警察署が襲撃され焼き討ちに。無政府状態になった翌6日政府は戒厳令を敷き近衛師団が鎮圧、ようやく騒動は収まりましたが死者17名負傷者500名以上、検挙者は2000名に上りました。

 

この暴動によって小村邸にも投石が相次ぎ、小村の妻マチの精神状態が不安定になり小村は家族と別居することになります。しかし国のために懸命に交渉した結果がこれですから辛かったでしょうね。

 

私見とまとめ

 

悲運の人ですね。政府から命じられた講和の絶対条件を成立させたにも関わらず、国民からは戦犯扱い、新聞には「小村許し難し」連日報道された小村の胸中は察して余りあるものがありますね。

 

膨らみ続ける戦費のための増税で苦しみ、多額の賠償金によって救われた思った国民の怒りは理解出来ますが、やはりそれを煽った新聞の罪は大きなものだと私は思います。(これは今も変わりませんが)

 

しかし小村の交渉を伊藤博文は高く評価しており、首相の桂太郎と海軍大臣山本権兵衛は新橋の駅に出迎え爆弾を投げられると共に死ぬ覚悟であったと言います。

 

小村の評価に関しては現在も評価が分かれているところで、酷いものでは交渉決裂を恐れた小村が譲歩したなどと誤った情報も一人歩きしています。

 

小村があくまでも賠償金にこだわったのは、自分を引き立ててくれた恩師である陸奥宗光の影響が大きかったと言えると思います。

 

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日清戦争後の下関条約で伊藤博文と共に全権として交渉に当たった陸奥は、2億テールという当時の国家予算の4倍もの巨額の賠償金を日本にもたらしました。

 

坂本龍馬をして「刀なしでも生きて行けるのは俺と陸奥だけだ」と言わしめた陸奥は、多くの政治家がなし得なかった維新後海外15カ国との不平等条約の改正にも挑み「治外法権」を撤廃させましたが、もうひとつ重要案件が残っていましたそれが「関税自主権」。

 

そしてその交渉に当たったのが陸奥によって外交官に引き立てられた小村寿太郎でした。

 

ポーツマス会議での小村の粘り強さと冷静さをルーズベルト大統領も驚嘆させ、アメリカは日本を侮れない国だと認識するようになっていたんですね。

 

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そして条約交渉に乗り出した小村はアメリカ始め11カ国から、関税自主権を自国に取り戻すことに成功。幕末から日本を苦しめていた不平等条約は陸奥と小村の努力によって改正へと導かれました。

 

こうした背景もあって小村はあくまでも賠償金にこだわったのだと思います。ポーツマス条約が締結された夜、ホテルの部屋から泣き声が聞こえてくるのを不審に思った警備員が部屋に行ってみると小村が大声で男泣きしていたそうです。

 

小村の胸に去来していたものは何だったのか、推し量ることは出来ませんが条約締結が小村にとって苦渋の決断であったことは間違いのないことでしょうね。

 

その後貴族院議員などを務め、1911年(明治44年)肺結核のため死去。享年56。

従二位勲一等旭日桐花大綬章、侯爵。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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