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2017年の大河ドラマに是非推したい3人の戦国武将♪

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2016年のNHK大河ドラマは「真田丸」脚本の三谷幸喜さんが、真田信繁大坂の陣をどうように描くのが興味のあるところですね。

 

しかし私には是非大河ドラマで取り上げて欲しい3人の武将がいます。脇役としてはいろんな映画やドラマに登場しても決して主役にならない、しかし魅力溢れた興味深い武将たちです。

 

まだ今年の大河ドラマが始まったばかりで来年の話しなどとお叱りをうけそうですが、かなり以前からこの3人の誰かが取り上げられないかなと思っていました。

 

その3人とは・・・。

 

 

 「氏郷は法令厳駿である代わりに、自ら処することも一毫の緩怠もない。徹底して武人の面目を保ち徹底して武人の精神を揮っている。主人としては恐ろしくもあり頼もしくもある人で、敵としては所謂手強い敵。味方としては堅城鉄壁のようなものである」幸田露伴

 

「一番目の漢 蒲生氏郷

蒲生賢秀の嫡男として、近江蒲生郡に生まれる。幼名鶴千代。13歳で織田家に人質として出されるが、信長はひと目見で、尋常ならざる才能を見抜き、自ら烏帽子親となり、15歳で元服させ娘の冬姫を娶らせたといいます。鶴千代は忠三郎賦秀を名乗り、織田家の一門として迎えら各地を転戦し武功を上げました。

 

本能寺の変の後は秀吉に仕え、亀山から伊勢12万石、そして遂には会津92万石の大大名となり。

それまでの黒川を「若松」と改め、7層の天守閣を持つ白を築城し自らの幼名と、蒲生家の舞鶴の家紋を取って「鶴ケ城」と名付けました。

 

 この時期の名のある武将は、いろんなエピソードを残していますが、氏郷も同じように様々な逸話を残しています。

 

多くはご存知の方も多いでしょうが、私が興味をそそられるのは、やはり会津転封のいきさつですね。

 

 当時の奥州には、秀吉のもっとも警戒すべき伊達政宗という、煮ても焼いても食えない(笑)強者がいましたから、これを監視する意味でも、豊臣政権にとって会津重要な国であったと考えられます。

 

正宗への牽制のためにも、誰を配するのか。秀吉が諸将に投票させると、ほとんどが「細川越中守忠興」と書いてあったのですが、これを見た秀吉は「汝らの何と愚かなことか、我が天下を取ったのも道理である。この地には蒲生忠三郎以外になし」と言ったそうです。

 

このエピソードに、豊臣政権下における氏郷の評価、そして秀吉の氏郷に対する思惑が、よく表れていると私は思います。会津転封が決まった時氏郷は涙を流したと言われています。

 

それを見た家臣のひとりが感涙だと思い「ご出世なさいました、お気持ちはよく分かります」と言うと。「たとえ大領であっても奥羽のような、田舎にあっては本懐を遂げることが出来ぬ」と言ったそうです。

 

 秀吉は氏郷の心の中を見抜いていたんでしょうね。

現代で言えば、社長が息子可愛さに優秀な部下を栄転という名のもとに、経営の中枢から追っ払う。

元亀天正の時代にもそんなことがあるんですね。デキる部下の悲劇と言えますね。

 

                                 

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「この人だけはもう少し長生きさせたかった、と思う人物のひとりに長宗我部信親がいる。彼は土佐の太守元親の嫡男に生まれ二十二歳の若さで戦場に命を散らした。天正十三年の長宗我部征伐、そして翌年の九州攻めと従軍、この若者が歴史上あらわれたのは、ほんの僅かな期間であった」戦国群像より引用。

 

「2番目の漢 長宗我部信親」

土佐の長宗我部と言えば、四国をほぼ統一した元親、関ヶ原で西軍に加担し改易され、24万石の太守から寺子屋の先生へ落魄の身となりながら、豊臣家に請われ大阪城に入城し、夏の陣で最期を遂げた盛親が有名ですが、その元親の嫡男であり盛親の兄が信親です。

 

子供の頃から聡明だった信親を元親は寵愛したらしく、信長への使者としても随行し、烏帽子親として「信」の字を与え信親と名乗らせ、左文字の銘刀と名馬を与えたそうです。

 

一説には養子に欲しがったとありますが、それだけ聡明な子供だったのは事実のようですね。

 

文武に優れ家臣や領民からの人望も厚く、身の丈六尺一寸容貌は色白く柔和してと言われています。今で言うなら184cmの長身で色白のイケメンというところですね!

 

元親はおおいに将来を嘱望し成長した信親を「樊噲(はんかい。漢の劉邦の腹心の猛将)にも劣るまい」と言ったそうですが自慢の息子だったんですね。

 天正十四年の九州征伐では、先陣に組み入れられ出陣。

 

秀吉の主力到着まで合戦無用の命令を、無視した軍監仙石秀久によって敵前渡河という無謀な作戦を命じられます。

 

これは土佐征伐で、散々苦しめられた仙石の長宗我部に対する意趣返しだと言われていますが。まるで無能なキャリアが捜査の指揮を取って現場を混乱に陥れたようなものですね。

 

信親にしてみれば「戦は評定でおこすんじゃない!現場で判断するんだ!」織田裕二さんのように怒鳴りたかったでしょうね。

 

 反対する長宗我部親子の意見も聞かず、軍監の立場を利用して作戦は強行されます。

 

信親は「明日は討ち死にと定めたり、この方より川を渡ること罠に臨む狐のごとし。決定に背いて戦わず不覚の敗軍としてどんな面を下げて再び都に帰れよう。一地に屍をさらし名誉を後世にとどめん!」

 

 そして島津家久率いる薩摩の精鋭と、戸次川での闘いでなんと!仙石軍は真っ先に敗走!本人も逃走。

 

元親も家臣に守られ戦場を離脱。孤立した信親は奮戦しますが薩摩の新納忠元に討ち取られます・・・享年二十二。

 

 戦後、信親の遺骸を受け取りに来た使者に対して新納は、涙ながらに弔意を表し求めに応じて遺骸と武具を返還し、信親の豪勇を讃え使者を討ち死にの場所へと案内したそうです。

 

戊辰戦争の戦後処理を見ても薩摩人は戦い終わった敵に対して寛容でしたが、それが薩摩の士風であったんですね。

 

ともかくもこれは当時としては異例の丁寧な対応で、信親の勇猛さは後世までの語りぐさになりました。

 

 一方あれほど寵愛していた嫡男を失った元親の哀しみはいかばかりだったでしょうか?元親は変わり果てた息子の姿を直視出来ず泣き崩れたといいます。

 

またこれ以後腑抜けたようになり、家臣の対立や後継者問題で騒動が絶えずそれが衰退の原因になりました。

 

これも戦国の世の無情でしょうか。

 

         

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「人となり温純寛厚、徳ありて驕らず功ありて誇らず。人を用ふる己に由る。善に従ふ流るるが如し。奸臣を遠ざけ奢侈を禁じ、民に撫するに恩を以ってし、士を励ますに義を以ってす故に士、皆之が用いたるを楽しめり。攻めれば必ず取り戦へば必ず勝てり」名将言行録。

 

「三番目の漢 立花宗茂

「剛勇鎮西一」と言われ、秀吉をして「東の本多忠勝西の立花宗茂東西無双」とその武勇を讃えた名将。

 

まぁ秀吉は人を褒めてその気にさせるのが上手い人ですが(笑)

 

 関ヶ原で西軍に加わり領地没収された宗茂ですが、その温厚で義に厚く誠実な人柄と、数々の武功で「武士の中の武士」と言われた宗茂への評価は、決して落ちることはなく徳川家も宗茂への評価は高かったと考えられますね。

 

宗茂は文化人としても優れ、細川忠興は息子の忠利に対して「数寄のことは宗茂を見習うこと」と書き記しています。

 

文化人として名の知れた細川幽斎を父に持つ、忠興が一目置いていたくらいですから、宗茂の茶道や歌道への造詣の深さは世に知られていたんでしょうね。

 

 宗茂の人柄をエピソードとして有名なのが、関ヶ原の戦後領地の柳川に戻る時薩摩の島津義弘と同行するのですが、実父高橋紹運の仇である島津義弘に対し、家臣たちが「今こそ父君の仇を」と言うのを「敗軍を討つのは武家の誉れにあらず」と退け島津の援護を申し出て、義弘と友誼を結びました。

 

文禄・慶長の役で明軍から「鬼」と恐れられた島津義弘も、宗茂の人柄には感じるところがあったんですね。

 

薩摩に帰り着いた義弘は、柳川城に籠城する宗茂に対して援軍を送っています。

 

 柳川城開城後改易され浪人になりますが、多くの大名に家臣にと誘われましたがすべて謝絶。その後江戸に出て本多忠勝の推挙で江戸城に召しだされ、まもなく陸奥棚倉三万五千石の大名として見事復活!

 

大坂の陣では宗茂が豊臣家に味方するのでは?と、家康自らが説得に当たっています。宗茂の武名は色あせてなかったんですね。

 

 しかし何と言っても宗茂の人生のハイライトは、元和六年に旧領筑後柳川十一万石を与えられた事ですね!

 

関ヶ原に西軍として参戦し改易されて旧領に復帰した唯一の大名、それが立花宗茂なんですね。正にネバーギブアップの精神でしょうか。

武人としての筋目を重んじて、生きてきた宗茂ならではの快挙ですね!

 

           

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氏郷と信親は早逝しましたが宗茂を含めた三人が天下を取れる器であったか、おそらくなかったと思います。

 

しかし歴史を俯瞰して見ることの出来る、現代の目から見ても三人が武将として、器量のある魅力的な人物であったこと、それは間違いのない事実だと思います! 

 

誰か高名な脚本家が強烈にプッシュしてくれないかな?